一度観ただけで、一週間以上も余韻が消えない…。美しく、胸を打ち、決して忘れられない傑作【結末ネタバレあり】【映画紹介】
もちろんです😊
『ジョゼと虎と魚たち』は、2003年の実写映画版を中心にお話ししますね。
この作品、表面だけ見ると「障害のある女性と大学生の恋愛映画」なんですが、実はかなり複雑です。
しかも、田辺聖子の原作 → 犬童一心監督 → 渡辺あやの脚本 → 妻夫木聡・池脇千鶴 → くるりという組み合わせが非常に強烈。
そして何より面白いのが、
「恋愛映画なのに、恋愛だけを描いていない」
ところなんです。
🐟 まず基本情報から
2003年12月13日公開、上映時間116分。
監督は犬童一心、脚本は渡辺あや。
主演は、
- 妻夫木聡 → 恒夫
- 池脇千鶴 → ジョゼ
です。原作は田辺聖子の短編小説。日本映画データベースでも、この主要スタッフ・キャストが確認できます。
そして音楽が、
くるり。
ここが、この映画を語るうえでめちゃくちゃ重要です。
📚 雑学① 原作は「かなり短い」小説
まず驚くのがここ。
田辺聖子の原作は、長大な恋愛小説ではありません。
むしろ短編です。
KADOKAWAの紹介でも「表題作」として収録されている作品で、作品集には他の短編も収められています。
つまり映画版は、
短い原作から、116分の映画として一つの世界を作り上げた
わけです。
ここが映画化として面白い。
原作の「核」を残しながら、
- 恒夫の大学生活
- 香苗
- ジョゼの家
- 海
- 水族館
- ドライブ
- 虎
- 魚
など、映画ならではの世界を膨らませています。
だから、
原作=小さな恋愛小説
なのに、
映画=大阪の街を生きる若者たちの青春映画
になっている。
これはかなり大胆な翻案です。
🎬 雑学② 「ジョゼ」は本名ではない
これも重要。
ジョゼという名前は、彼女が自分で名乗っている名前。
その由来として有名なのが、フランソワーズ・サガンの小説・作品世界など、彼女が憧れる異国的な世界です。
映画の中でジョゼは、単なる「車椅子の女性」ではなく、
自分の想像力で世界を広げている女性
として描かれています。
外の世界に自由に出られない。
だからこそ、
本を読む。
絵を描く。
想像する。
物語を作る。
つまり彼女には、
身体的には行動範囲が狭いのに、精神世界はものすごく広い。
ここがジョゼというキャラクターの魅力です。
🦽 そしてこの映画、実は「障害者映画」ではない
ここは非常に重要です。
もちろんジョゼは身体障害のある女性として描かれています。
でも映画の面白さは、
「障害がある女性を助ける優しい男性」
という単純な構図にしていないこと。
むしろジョゼはかなり、
ワガママで、口が悪くて、嫉妬深くて、性的で、意地っ張り。
つまり、
「かわいそうな障害者」ではなく、一人の女として描いている。
これが2003年の日本映画として、かなり攻めています。
ジョゼにはちゃんと欲望がある。
恋愛したい。
嫉妬する。
男に触れてほしい。
一緒にいたい。
こういう部分を隠さなかった。
だからこそ、作品が単なる「感動の福祉映画」になっていないんです。
🎭 雑学③ 池脇千鶴のジョゼは、かなり大胆な役
この作品を語るなら、やっぱり池脇千鶴さんです。
ジョゼというキャラクターは、
可愛いだけでは成立しない。
むしろ、
「この女、めんどくさいな……」
と思わせる瞬間が必要なんです。
でも同時に、
「この人、かわいいな」
とも思わせなければならない。
さらに、
「この人には、この人だけの世界がある」
とも感じさせる。
この三つを同時に成立させる必要がある。
これはかなり難しい役です。
だから池脇さんのジョゼって、笑顔だけを見るより、
ふてくされた顔、嫉妬している顔、黙っている顔
を見ると凄さが分かります。
🚲 妻夫木聡の恒夫も、実は「完璧な彼氏」ではない
ここが、この映画が大人っぽい理由です。
恒夫って、最初はすごく優しい。
ジョゼを助ける。
車椅子を押す。
一緒に出かける。
でも、映画をよく見ると、
「優しい人=立派な人」ではない
ことが分かってくる。
恒夫には、
- 若さ
- 性欲
- 好奇心
- 夢
- 浮気心
- 自分勝手さ
がある。
つまり、
「障害のある女性と恋をする聖人」ではない。
普通の若い男なんです。
ここが妻夫木聡の演技の上手いところ。
爽やかな俳優なのに、恒夫の中にある身勝手さや逃げたい気持ちもちゃんと残している。
💔 だから、この映画は「純愛映画」と言い切れない
ここ、ものすごく大事です。
宣伝だけ見ると、
「純愛」
として紹介されがち。
でも実際に見ると、
かなり生々しい恋愛映画です。
二人は、
好きになる。
一緒に暮らす。
身体を重ねる。
喧嘩する。
傷つける。
別れる。
つまり、
「恋愛って、相手を救うことじゃない」
という話でもある。
ジョゼも恒夫も、相手に救ってもらうだけではない。
むしろ恋愛した結果、
自分自身の弱さを知ってしまう。
ここがこの映画の痛いところです。
🐯 では「虎」って何なのか?
タイトル、
『ジョゼと虎と魚たち』
ですよね。
「なんで虎?」
と思いますよね(笑)。
映画の中では、ジョゼが怖れているものとして虎が登場します。
つまり、
虎=外の世界の恐怖
として読むことができます。
ジョゼにとって外の世界は、
未知で、巨大で、自分を傷つける可能性がある。
でも恒夫と一緒に出ていく。
そして、
「怖いから閉じこもる」
だけではなく、
「怖いけど見てみたい」
という気持ちが生まれる。
だから虎は、
「ジョゼが外の世界に向き合うための象徴」
と考えると非常に面白い。
🐠 じゃあ「魚」は?
魚はさらに面白いです。
ジョゼにとって魚は、
自分の想像の世界と、現実世界の間にある存在
のように感じられます。
水族館などのシーンでは、
外に出ることのできる世界と、
ガラス越しに眺める世界が同居している。
つまり、
魚は自由に泳いでいるのに、ジョゼは車椅子で移動する。
でも、ジョゼ自身も想像力の中では自由に泳いでいる。
この対比が綺麗なんですよね。
🎵 そして、映画史的にかなり重要なのが「くるり」
ここは個人的に一番語りたいです😊
主題歌は、
くるり「ハイウェイ」。
2003年11月5日に発売されたサウンドトラックには、
「ジョゼのテーマ」
「乳母車」
「別れ」
「サガン」
「ドライブ」
「恒夫とジョゼ」
「ハイウェイ<Alternative>」
などが収録されています。
つまり、単にエンディングに有名曲を流しただけではありません。
くるりが映画全編の音楽を担当している。
これがものすごく効いている。
🚗 「ハイウェイ」が映画にハマりすぎる理由
「ハイウェイ」という曲自体が、
旅に出る理由
について歌っています。
これが、
「外の世界へ出ていくジョゼ」
と重なる。
しかも曲は、
爽やかなのに、どこか寂しい。
前向きなのに、完全には幸せじゃない。
これが映画そのものなんです。
だからエンドロールで「ハイウェイ」が流れると、
映画の続きを曲がやってくれる。
そんな感覚があります。
ちなみに公式サウンドトラックは、くるりが「全編音楽監修」を担当した作品として発売されています。
🎸 ここに「2003年」という時代がある
これも面白い。
2003年の日本映画って、
若者映画 × 邦楽ロック
の組み合わせが非常に強かった時代。
まだ現在のように、
「映画音楽=大作オーケストラ」
という感じではありません。
インディーズ/ロック/J-POPと映画の距離が近かった。
その中で、
くるり × 犬童一心
という組み合わせができた。
これが『ジョゼ』の独特の空気を作っています。
🎥 犬童一心監督の「距離感」が凄い
犬童監督の演出で面白いのが、
感動させようとしてカメラを近づけすぎない
ところです。
普通なら、
泣く
↓
顔のアップ
↓
音楽ドーン!
とやりたくなる。
でも『ジョゼ』は、そういう露骨な演出をかなり避ける。
人物を少し離れたところから眺める。
部屋の空間を見せる。
大阪の街を見せる。
そして、
二人の関係を「観客が覗いている」ような感覚
を作る。
だから、観客がジョゼと恒夫を「応援する」のではなく、
「二人の恋愛を目撃してしまった」
ような感覚になるんです。
🏙️ 大阪という街も、実は重要な出演者
この映画、舞台が大阪であることも大きい。
大阪の街って、
東京のような巨大都市とは違って、
生活の匂いが強い。
商店街。
団地。
住宅街。
坂道。
古い家。
こういう場所の中にジョゼと恒夫がいる。
だから二人の恋愛が、
「映画の中だけの特別な恋」
ではなく、
「どこかの街で本当に起きていそうな恋」
に見える。
🎬 業界話として面白いのが「キャスティング」
2003年の妻夫木聡は、すでに人気俳優でした。
一方、池脇千鶴も若手実力派。
この二人を並べることで、
商業映画としての入口
を作りながら、
内容はかなり尖った恋愛映画にする。
つまり、
「売れるスターを使って、かなり大人向けの映画を作る」
という絶妙なバランスなんです。
実際、この作品は後年まで評価され続け、韓国版リメイクの公式紹介でも「青春恋愛映画の金字塔」として紹介されています。
🌏 そして、なんと韓国映画にもリメイクされた
2003年版から約20年後、
韓国版『ジョゼと虎と魚たち』
が作られました。
つまり、
田辺聖子の小説
↓
2003年・日本実写映画
↓
2020年・日本アニメ
↓
韓国実写リメイク
と、作品が何度も別の形に生まれ変わっている。
これはかなり珍しい。
それだけ、
「障害のある女性と健常者の恋愛」
という設定を超えて、
「人を愛するとはどういうことか」
という普遍性があったということだと思います。
😳 さらに意外なのが「アニメ版」との違い
2020年のアニメ版も同じ田辺聖子作品が原作ですが、物語はかなり再構築されています。
公式設定では、恒夫は大学生で、ジョゼと出会い、二人で外の世界へ飛び出していく物語。
つまり、
2003年版=犬童一心の現実的・生々しい恋愛映画
に対して、
2020年版=アニメーションならではの想像力を前面に出した青春映画
という違いがあります。
同じ原作でも、20年近く経つと、
「障害者をどう描くか」
「恋愛をどう描くか」
「若者をどう描くか」
の感覚そのものが変わっている。
ここも見比べると面白いです。
💔 そして最大のポイント:「別れ」は失敗なのか?
この映画について、僕が一番面白いと思うのはここです。
二人はずっと幸せに暮らすわけではない。
だから、
「結局、二人は別れてしまうんだから、恋愛は失敗だったの?」
と考えたくなる。
でも、この映画はたぶん、
「恋愛の成功=一生一緒にいること」
とは考えていない。
ジョゼは恒夫と出会ったことで、
自分の世界を広げた。
恒夫もジョゼと出会ったことで、
自分が人を愛することの意味を知った。
つまり、
二人が一生一緒にいることだけが、恋愛の成果ではない。
これはかなり大人っぽい恋愛観です。
🌊 そして『川っぺりムコリッタ』『うさぎドロップ』と並べると……
今回も、前の2本とつなげると面白いですよ😊
| 作品 | 松山ケンイチ | 人との関係 |
|---|---|---|
| 『うさぎドロップ』 | 大吉 | 家族を作る |
| 『川っぺりムコリッタ』 | 山田 | 他人とつながる |
| 『ジョゼと虎と魚たち』 | ※主演は妻夫木聡 | 恋愛によって自分を知る |
実は3作品とも、
「一人の人間が、他者との関係によって自分自身を知る」
というところでつながっています。
そして『ジョゼ』が一番シビア。
『うさぎドロップ』は、
「一緒に暮らせば家族になれる」
という希望。
『川っぺりムコリッタ』は、
「他人でも一緒に飯を食えば、少しつながれる」
という希望。
そして『ジョゼ』は、
「愛していても、別れることはある」
という現実。
だからこそ、余韻が強いんです。
🎞️ 最後に、もう一度観るなら「3つ」だけ注目してみてください
① ジョゼの「強がり」
口では強いことを言っているのに、目や表情が全然違う。
② 恒夫の「優しさと身勝手さ」
優しいけれど、聖人ではない。
ここを意識すると妻夫木さんの演技がものすごく立体的になります。
③ 「ハイウェイ」が流れる意味
この映画は「二人の恋愛の物語」だけではなく、
「人間は、自分の知らない世界へ一歩踏み出してしまう生き物」
という映画でもあります。
だから、
ジョゼが虎を見ること=怖い世界を見ること
魚を見ること=自分とは違う世界を見ること
ハイウェイ=その世界へ出ていくこと
と考えると、タイトルと音楽と物語が一本につながってきます。
そして何より、2003年という時代に、**「障害のある女性を“かわいそうな存在”ではなく、欲望も嫉妬もプライドも持った一人の女性として描いた」**ことが、この映画の大きな価値だと思います。
ちなみに、この作品を語るときは原作・2003年実写・2020年アニメを3つ並べると、かなり面白い発見があります。特に「なぜ2003年版のラストがああいう形になったのか」を掘ると、渡辺あやの脚本と犬童一心監督の考え方が見えてきます。
はい😊
サガンの**『一年ののち』(Dans un mois, dans un an)の「続編」としてよく挙げられるのは、『熱い恋』**ではなく、少し整理が必要です。
実は『一年ののち』は、サガンの作品群の中で明確な続編がある作品ではありません。
ただし、サガンには人物や恋愛関係が作品をまたいでゆるやかにつながる作品があり、「続編のように読める」と紹介されるケースがあります。
もしhiroppy123さんが、日本語版で見かけた**「『一年ののち』の続編」**という記述を指しているのであれば、作品名を確認して正確に整理できます。
本の表紙か、その「続編」と書かれていた作品名を教えていただければ、出版事情も含めて解説します😊
ああ、なるほど!😊
それなら、私の前の回答の説明が少しズレていました。映画『ジョゼと虎と魚たち』に実際に出てくるサガンの本は『一年ののち』です。 そして、ここがものすごく重要です。
📖 『一年ののち』は、ジョゼの「名前の由来」なんです
映画のジョゼことクミ子は、サガンの**『一年ののち』に登場する女性「ジョゼ」**から、自分を「ジョゼ」と名乗っています。映画の中でも、サガンの本を読む場面が重要なモチーフになっています。
つまり、
クミ子 → サガンを読む → 小説のジョゼに惹かれる → 自分も「ジョゼ」と名乗る
という関係です。
そして、これが実は映画の結末を考えるうえで、とても怖いくらい意味深なんです。
😢 映画で読まれる文章が、ものすごく重要
映画では『一年ののち』の終盤にある、ジョゼとベルナールの会話が朗読されます。
内容は要するに、
「いつかあなたはその男を愛さなくなる。僕もいつかあなたを愛さなくなる。そして二人はまた孤独になる。それでも、それは人生の中で流れていく一年なのだ」
という趣旨。
実際、映画の劇中引用としてこの場面が使われています。
これ……『ジョゼと虎と魚たち』を観た人には、かなり刺さりますよね。
なぜなら、
ジョゼは、この物語を「自分のこと」のように読んでいる
と考えられるからです。
😳 しかも『一年ののち』のジョゼと、映画のジョゼが似ている
ここが犬童一心監督・渡辺あや脚本の仕掛けとして面白いところです。
サガンの『一年ののち』のジョゼも、単純な「可愛いヒロイン」ではありません。
恋愛関係の中にいながら、
愛されることと、愛すること。
自由と孤独。
誰かと一緒にいることと、一人になること。
の間を揺れています。
一方、映画のジョゼも、
「恒夫とずっと一緒にいられる」と単純には思っていない。
だから、あのサガンの文章が、単なる文学ネタではなく、
ジョゼ自身が自分の未来を予言しているように聞こえる
んです。
📚 そして、面白いことに「ジョゼ」という名前自体がサガンから来ている
ここが映画好きにはたまらない小ネタです。
田辺聖子の原作でも、ジョゼことクミ子が登場しますが、映画ではサガンの『一年ののち』がさらに明確なモチーフとして組み込まれています。
つまり映画を作った側は、
「ジョゼ」という名前をただのおしゃれな外国人名にしなかった。
ちゃんと、
「この女性はサガンのジョゼに自分を重ねている」
という設定にしたわけです。
🎬 そして、ここからが業界的に面白い
実は『ジョゼと虎と魚たち』の映画版は、田辺聖子さんの原作をそのまま映像化したものではありません。
原作はかなり短い作品で、映画版ではそこに新しい人物やエピソードを加え、大幅に再構築されています。
だから映画のジョゼは、
田辺聖子のジョゼ
であると同時に、
サガンの『一年ののち』を読んで、自分を「ジョゼ」と名乗るジョゼ
にもなっている。
これが映画版のオリジナルな厚みなんです。
🌊 そしてタイトル『ジョゼと虎と魚たち』にもつながる
これも面白いです。
ジョゼにとって、
「虎」=自分の恐れている世界
であり、
「魚」=自分が憧れている外の世界
という意味合いがあります。
一方、サガンの『一年ののち』は、
「愛している人も、いつか自分から離れていく」
という世界観。
この二つが重なると、
「外の世界へ出たい。でも、外の世界に出れば、愛する人を失うかもしれない」
というジョゼの葛藤が見えてくるんです。
だからサガンは、映画の中では単なる小道具ではなく、**ジョゼという女性の心の中を説明する「もう一つの物語」**なんですね。
📌 ちなみに、先ほど私が「『一年ののち』に明確な続編はない」と答えた件
ここは、今回のご指摘を受けて補足しておきます。
『一年ののち』自体には、いわゆる「続編」として読むべき別作品があるわけではありません。
『一年ののち』の原題は 『Dans un mois, dans un an』 で、独立した長編小説です。国立国会図書館でも単独作品として確認できます。
ただし、サガンの別作品**『すばらしい雲』**も映画『ジョゼと虎と魚たち』の関連作品として扱われており、劇中音楽のクレジットにも『一年ののち』と『すばらしい雲』の両方が記載されています。
なので、
「『一年ののち』の続編って何?」
と感じられたのは、もしかすると**『すばらしい雲』**のことかもしれません。
そして、もしそうなら……これはかなり面白い話があります😊
**『一年ののち』と『すばらしい雲』の関係、そして「なぜ映画『ジョゼ』ではこの2冊が重要なのか」**まで掘ると、映画のラストの意味がかなり違って見えてきます。
はい😊
そして、ここは前の回答を一つ訂正して、より正確にお話ししたいです。
実はご指摘の通り、映画『ジョゼと虎と魚たち』で出てくるサガンの本には、かなり重要な仕掛けがあります。
結論から言うと、
『一年ののち』→『すばらしい雲』→『失われた横顔』
は、サガンの「ジョゼ」を軸にした、いわゆる**「ジョゼ三部作」**として扱われることがあります。フランス語の原著では、それぞれ1957年、1961年、1974年の作品です。
そして映画『ジョゼと虎と魚たち』では、この文学上の「ジョゼ」が、池脇千鶴さん演じるジョゼ(クミ子)の自己イメージに組み込まれている。
ここが非常に面白いんです。
🐟 まず「ジョゼ」という名前の秘密
映画のジョゼの本名は山村クミ子。
でも彼女は自分を「ジョゼ」と呼ばせています。
その「ジョゼ」は、サガンの小説に登場する女性から取ったもの。
つまり、
クミ子という現実の女性
↓
サガンの小説を読む
↓
小説の中のジョゼに自分を重ねる
↓
自分も「ジョゼ」と名乗る
という構造です。
これは単なる「読書好きの女の子」という設定ではありません。
ジョゼは、自分の人生を文学によって作り直している。
ここが重要なんです。
📖 『一年ののち』って、どんな小説?
原題は、
Dans un mois, dans un an
直訳すると、
「一か月後、一年後」
くらいの意味。
1957年に発表されたサガンの第3作です。
タイトルからして、
「今はこうだけど、一か月後にはどうなっている?
一年後には?」
という、恋愛の未来への不安を感じさせます。
サガンの公式作品紹介でも、冒頭から深夜のカフェ、電話、孤独な人物たちが描かれています。
つまり、
恋愛している現在
よりも、
その恋愛がいつか終わってしまうかもしれない未来
を見ている小説なんですね。
💔 そして「続編」『すばらしい雲』
こちらの原題は、
Les Merveilleux Nuages
1961年刊行。
『一年ののち』から4年後です。
日本では朝吹登水子訳の新潮文庫版が長く知られてきました。国立国会図書館にも新潮文庫版が登録されています。
そして、ここに**同じ「ジョゼ」**が登場する。
だから日本の読者の間では、
『一年ののち』
↓
『すばらしい雲』
↓
『失われた横顔』
を**「ジョゼ三部作」**と呼ぶことがあります。
☁️ 『すばらしい雲』というタイトルが、ものすごくサガン的
「すばらしい雲」。
なんとも幸福そうなタイトルですよね。
ところがサガンは、
雲=美しいけれど、つかめないもの
という感覚を持ち込んできます。
恋愛も同じ。
美しい。
一緒にいると幸せ。
でも、
形がない。
留めておけない。
いつか動いてしまう。
これがサガンの恋愛観です。
だから、
「すばらしい雲」
という美しいタイトルの裏に、
「幸福はつかめない」
という少し寂しい感覚がある。
🎬 ここで映画『ジョゼ』に戻ります
ここからが、めちゃくちゃ面白いです。
映画の中で恒夫は、
ジョゼがサガンの『一年ののち』を大切にしている
ことを知ります。
そしてジョゼは、
「続きが読みたい」
という趣旨のことを言う。
そこで恒夫は、
『すばらしい雲』
を探す。
つまり、
ジョゼが欲しがった本を、恒夫が探してプレゼントする。
これ、恋愛映画としてものすごく上手いんです。
なぜなら恒夫は、
ジョゼの身体を理解することから始まって、最後にはジョゼの「心の本棚」に入っていく
から。
❤️ 「本を探してあげる」=恒夫がジョゼの世界に入る
最初の恒夫は、
ジョゼをほとんど知りません。
車椅子の女性。
ちょっと変わった喋り方。
毒舌。
家からあまり出ない。
でも、
ジョゼが何を読むのかを知る。
そして、
「この本の続きを読みたい」
という願いを覚えている。
それを探す。
これって、実はかなり重要な恋愛描写です。
「好きだよ」と言うより、
「あなたが大切にしているものを覚えている」
ことのほうが、深い愛情として描かれている。
😢 そして、ものすごく皮肉なことが起きる
恒夫は、
『一年ののち』の続き=『すばらしい雲』
をジョゼに渡す。
つまり、
「あなたが好きな物語の続きを、僕が持ってきたよ」
なんです。
ところが現実の二人の恋愛は、
本のようには続いていかない。
ここが残酷。
ジョゼは、
物語の続きを手に入れた。
でも、
自分自身の恋愛の「続きを保証された」わけではない。
🥶 これ、映画スタッフの「文学の使い方」としてかなり巧い
映画に文学作品を出す場合、
普通は、
「この人物は文学好きですよ」
というキャラクター付けで終わりがちです。
ところが『ジョゼ』では、
本の内容と登場人物の人生を重ねている。
つまり、
劇中のサガン
=
映画のジョゼの心を映す「鏡」
になっています。
しかも観客は、サガンを読んでいなくても映画を観られる。
でも、読んでいる人には、
「あれ? これ、ジョゼ自身のことを言ってない?」
と気づける。
これは非常に上品な仕掛けです。
📚 そして『一年ののち』のタイトルそのものが怖い
ここ、映画を観た後だと本当に意味深です。
「一か月後、一年後」
というタイトル。
つまり、
今の幸福が、この先どうなっているかは誰にも分からない。
『ジョゼと虎と魚たち』も、
「今、この瞬間は幸せ」
というところから、
時間が進んでいく。
恋愛が始まる。
同棲する。
生活する。
でも人間の気持ちは変化する。
だからサガンの、
「一か月後、一年後、私たちはどうなっている?」
という感覚が、映画そのものに重なってくる。
☁️ そして『すばらしい雲』がさらに面白くなる
『一年ののち』だけだったら、
「ジョゼが好きな恋愛小説」
で終わります。
ところが、
『一年ののち』
→『すばらしい雲』
と進むと、
「ジョゼという女性が、その後どういう人生を生きるのか」
という物語が続いていく。
だから映画のジョゼが、
「続きが読みたい」
と言うこと自体に、
二重の意味が生まれる。
📖 本の続きを読みたい。
そして同時に、
❤️ 自分の人生の続きを知りたい。
とも読めるんです。
😳 さらに『失われた横顔』まである
そして「ジョゼ三部作」の3作目が、
『失われた横顔』
です。
原題は Un profil perdu。
1974年の作品。
ここまで来ると、
少女/若い女性の恋愛
だけではなく、
時間を経た人間の顔
というテーマが見えてきます。
「プロフィール=横顔」というのも面白い。
正面から見れば、
今の自分。
横顔なら、
過去や時間の影が見える。
……という読み方もできます。
もちろん、これは作品タイトルからの文学的な読みですが、サガン作品を「時間」という軸で読むと非常に面白いところです。
🎭 サガン自身が「時間」をかなり意識した作家だった
サガンの代表作を並べてみると、
『悲しみよ こんにちは』
↓
『ある微笑』
↓
『一年ののち』
↓
『ブラームスはお好き』
↓
『すばらしい雲』
と、
恋愛そのものより、
「恋愛した人間が、その後どうなるのか」
という部分にどんどん興味が向いていきます。
サガンの魅力は、
恋が始まる瞬間
よりも、
恋が始まった後、人間の心がどう変化するか
なんです。
🇫🇷 そしてサガンは「恋愛小説家」とだけ呼ぶと損
フランス文学界では、サガンが「若くしてデビューしたセンセーション」というイメージを背負い続けたことも大きい。
18歳で『悲しみよ こんにちは』を発表して大成功。
その後も恋愛、社交界、倦怠、孤独を描き続けました。フランスの百科事典的資料でも、後続作品にはフィッツジェラルドの影響が見られるとされています。
でも面白いのは、サガンの文章が単なる「セレブ生活の小説」ではないこと。
『ル・モンド』も晩年のサガンを振り返り、彼女の作品について、華やかなジェットセット的世界を忘れても、匂いや形容詞などの感覚的な描写が読者自身の感覚になるという趣旨で評価しています。
これ、まさに『ジョゼ』との相性なんです。
🐟 なぜ『ジョゼ』はサガンを読むのか?
僕はここを、
「ジョゼは、自分の人生を直接生きる代わりに、まず文学の中で生きている」
と考えると一番しっくりきます。
外の世界へ出ることが難しい。
だから、
本を読む。
物語の中の恋愛を知る。
物語の中の女性に自分を重ねる。
そして、
その女性の名前を自分の名前にする。
「クミ子」ではなく、
ジョゼ。
これは、
文学によって自分自身を再発明している
とも言えるんです。
💥 だから恒夫が『すばらしい雲』を探す行為が効いてくる
恒夫はジョゼを、
「かわいそうな女の子」
として助けているだけではない。
彼女が大切にしている文学世界を知り、
その世界に入ろうとしている。
つまり、
「ジョゼを助ける」
から、
「ジョゼを理解する」
へ進んでいる。
そして恋愛が深くなる。
この過程を、一冊の古本で見せる。
映画として非常にうまいですよね。
🎬 業界話:原作と映画版の「ジョゼ」は別物に近い
ここも大事です。
映画『ジョゼと虎と魚たち』は田辺聖子原作ですが、映画版では原作の短編をかなり膨らませています。
そのため、
田辺聖子のジョゼ
に、
サガンのジョゼ
という文学的な層を重ねている。
これによって映画版のジョゼには、
「自分で自分の人生を物語化する女性」
という性格が強くなっています。
これは映画オリジナルの魅力の一つだと思います。
🥺 そして、ここが『ジョゼ』の一番切ないところ
ジョゼは、
「自分はサガンのジョゼだ」
と名乗る。
恒夫は、
「じゃあ、そのジョゼの続きを探してあげる」
ように『すばらしい雲』を見つける。
二人は一緒に暮らす。
料理をする。
買い物をする。
恋愛する。
つまり、
文学の中にあった「ジョゼ」の人生を、現実世界で生き始める。
ところが現実の人生には、
サガンの小説のような美しい終わり方も、完璧な結末もない。
人間は、
好きでも別れる。
愛していても離れる。
それでも生活は続く。
🌊 だから、あの映画のタイトルが「ジョゼと虎と魚たち」なんです
ジョゼにとって、
サガンのジョゼ = 本の中の自分
だった。
でも恒夫と出会って、
本の中の人生 から、
現実の人生
へ出ていく。
そして、
虎を見る。
魚を見る。
海を見る。
外の世界を見る。
つまり、
本の中のジョゼから、現実のジョゼへ。
これが映画の大きな成長物語なんです。
📚 そして「続編」を探した恒夫は、実は未来を探していた
これ、僕が一番好きな解釈です😊
恒夫が古本屋で探しているのは、
『すばらしい雲』という一冊の本。
でも象徴的には、
「ジョゼの続きを探している」
んです。
そしてそれは、
「ジョゼと自分の続きを探している」
とも読める。
ところが、
人生には本のような「続巻」がない。
明日どうなるか分からない。
一年後どうなるか分からない。
それが『一年ののち』というタイトルとも響き合う。
☁️ 最後に、3冊をこう覚えると面白いです
| サガン | ざっくり言えば | 『ジョゼ』との関係 |
|---|---|---|
| 『一年ののち』 | 恋愛の現在と、その先の不安 | ジョゼが自分を重ねる本 |
| 『すばらしい雲』 | その後の人生・恋愛 | 恒夫が「続き」として探す本 |
| 『失われた横顔』 | 時間を経た人間の姿 | 「ジョゼ」という文学的人物のさらに先 |
この3冊が「ジョゼ三部作」と呼ばれることがあります。
そして何より面白いのが、
サガンのジョゼ
↓
田辺聖子のジョゼ
↓
映画のジョゼ
↓
アニメ版のジョゼ
と、「ジョゼ」という名前そのものが作品を越えて受け継がれていったこと。
実際、アニメ版でも主人公はサガンの『一年ののち』『すばらしい雲』のヒロインから「ジョゼ」と名乗っている設定になっています。
つまり、映画『ジョゼと虎と魚たち』におけるサガンは、小道具ではなく「もう一人の原作者」のような役割を果たしている、と見ると、とても面白いんです。
そして次に映画を観るとき、ジョゼが本を手にしている場面をちょっと注意して見てみてください。
「この本の中のジョゼ」と「今、画面にいるジョゼ」が、どこまで重なっているんだろう?
――そう考えると、あの映画、恋愛映画であると同時に、**「一人の女性が文学から現実へ出ていく映画」**にも見えてきますよ😊
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