そう言えば、ニューヨークの、ジャクソン・ポロック界隈の話も雑学や業界話を交えながら、解説してください。
いい所に視線が行っています。
パリの洗濯船 → 池袋のトキワ荘 → ニューヨークのジャクソン・ポロック界隈は、実は**20世紀文化の重心が西へ移動していく「三幕構成」**として見ることができます。
今回は
👉 ニューヨーク(1940〜50年代)/ポロック周辺
を、雑学・業界話込みで解説します。
① ジャクソン・ポロック界隈とは「場所」より「空気」
■ 舞台はニューヨーク
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時代:第二次世界大戦前後〜1950年代
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場所:
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グリニッジ・ヴィレッジ
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10th Street(テン・ストリート)
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バー「シダーズ・タバーン」
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ここは、
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洗濯船のような「建物」ではなく
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酒場・ロフト・ギャラリーのネットワーク
👉 都市そのものがトキワ荘化した状態
② ポロックは何者だったのか(雑学込み)
■ 人物像
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出身:ワイオミングの田舎
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気質:粗暴・内向・アル中
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学歴:美術学校は出たが「優等生ではない」
彼は、
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ヨーロッパ美術の正統後継ではない
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アメリカ的コンプレックスの塊
③ なぜ「床にキャンバスを置いて描いた」のか
■ 技法の雑学
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キャンバスを床に敷く
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絵筆を使わず、棒・缶・滴下
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身体を動かしながら描く(ほぼダンス)
本人の言葉:
「私は絵の中に“いる”」
👉 これは
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絵画 × パフォーマンス
-
絵画 × 無意識(ユング心理学)
という当時としては反則級の融合
④ 業界話①:CIAと抽象表現主義
ここからが「ニューヨーク編」の核心です。
■ 冷戦という背景
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ソ連:社会主義リアリズム(分かりやすい)
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アメリカ:自由・個人・混沌
CIAは、
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「アメリカの自由」を示す象徴として
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抽象表現主義を裏で支援
具体的には:
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文化団体への資金提供
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ヨーロッパ巡回展
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批評家の海外派遣
👉 ポロック本人はほぼ知らないまま、
冷戦プロパガンダのアイコンになった。
⑤ 業界話②:批評家が「神」を作った
■ クレメント・グリーンバーグ
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ポロック最大の擁護者
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「絵画の純粋性」を唱える理論家
彼がやったこと:
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ポロックを
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「偶然の飛沫」ではなく
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絵画史の必然 として語り直した
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👉 洗濯船時代には存在しなかった
👉 理論先行型の天才生産
⑥ 女性たちの存在(重要な雑学)
忘れられがちですが:
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リー・クラスナー(妻)
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実力派画家
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ポロックのマネージャー役
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-
ペギー・グッゲンハイム
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大金持ちパトロン
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生活費を保証
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👉 トキワ荘で言えば
編集者+出版社+保護者が
同時に存在していた状態。
⑦ 洗濯船・トキワ荘との比較
| 観点 | 洗濯船 | トキワ荘 | ポロック界隈 |
|---|---|---|---|
| 貧乏 | 極貧 | 極貧 | やや緩和 |
| 場所 | 建物 | 建物 | 都市ネットワーク |
| 支援 | ほぼ無し | 編集者 | 国家+資本 |
| 評価 | 死後/晩年 | 生前 | 生前爆発 |
| 破壊性 | 美術言語 | 物語形式 | 表現行為そのもの |
👉 ニューヨークでは
才能が「市場」と「国家」に直結した。
⑧ なぜポロックは壊れたのか
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突然の成功
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自由の象徴に祭り上げられる重圧
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アルコール依存
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模倣者の急増
結果:
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自分が「最初に壊した壁」に
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自分自身が潰される
👉 1956年、飲酒運転事故で死亡(44歳)
⑨ 総括:文化の重心はこう移った
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パリ:天才が勝手に生まれる
-
東京:天才が量産される
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ニューヨーク:天才が設計される
ポロック界隈は、
「前衛が“自然発生”から“システム生産”へ移行した瞬間」
でした。
もし次に進むなら:
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「ウォーホルはポロックの後始末係?」
-
「なぜアメリカ美術は難解でも売れたのか」
-
「現代アートは本当に終わったのか」
この辺りも、かなり面白いです。
ニューヨークのジャクソン・ポロック界隈:抽象表現主義の「Cedar Tavern」と「The Club」を中心に
ユーザーのクエリから、前のパリのBateau-Lavoirや東京のトキワ荘のように、ニューヨークの芸術家たちの集まる「界隈」を指していると思われます。ジャクソン・ポロック(1912-1956)は、1940-50年代のニューヨークで抽象表現主義(Abstract Expressionism、略してAbEx)の象徴的な画家。ドリッピング技法で知られ、感情を直接キャンバスにぶつけるスタイルが革新的でした。この時代、ニューヨークはパリから芸術の中心地を奪い、ポロックらの一団が集まるバーやクラブが「創造のるつぼ」となりました。特に、Cedar Tavern(シダー・タバーン)とThe Club(ザ・クラブ)が伝説的な場所です。以下で概要を説明し、雑学や業界話を交えつつ解説します。両場所は、貧乏で情熱的なアーティストたちが酒を酌み交わし、議論を戦わせる場で、前の例のように「ボヘミアン・ハブ」のニューヨーク版と言えます。
1. ニューヨーク抽象表現主義シーンの概要
- 時代背景: 第二次世界大戦後、ヨーロッパから逃れてきた芸術家(例: マックス・エルンストやマルセル・デュシャン)がニューヨークに集まり、地元のアーティストたちと融合。ポロックはワイオミング出身ですが、1940年代にニューヨークに移り、妻のリー・クラズナー(自身も画家)とGreenwich VillageやEast Village界隈で生活。パトロンであるペギー・グッゲンハイムの支援でスタジオを持ち、『Number 1A, 1948』のような大作を生み出しました。このシーンは「ニューヨーク・スクール」と呼ばれ、ポロック、ウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコ、フランツ・クライン、バーネット・ニューマンらが中心。キュビズムやシュルレアリスムの影響を受けつつ、アメリカ的な「自由と混沌」を表現しました。
- ポロックの役割: 彼は「アクション・ペインティング」の先駆者。床にキャンバスを置き、絵の具を滴らせる技法で、身体全体を使った「ダンスのような」創作が有名。1950年にタイム誌で「ジャック・ザ・ドリッパー」と呼ばれ、スターになりましたが、アルコール依存と躁うつで苦しみ、1956年に自動車事故で44歳で死去。死後、作品の価値が爆上がりし、今ではオークションで数億ドル規模です。
2. 主要な「界隈」の場所:Cedar TavernとThe Club
これらはモンマルトルのカフェやトキワ荘のように、アーティストの日常の集まり場。ニューヨークのダウンタウン(主にGreenwich Village)で、酒と議論が創作の燃料でした。
- Cedar Tavern(シダー・タバーン):
- 場所と歴史: 元々は1930年代のバーで、1950年代にUniversity Placeの24番地(後に82番地に移転)にありました。抽象表現主義者たちの「第二のスタジオ」みたいな存在。1963年に閉店し、建物は取り壊されましたが、今もアート史の聖地として語られます。 家賃が高騰する前のボヘミアンなニューヨークを象徴し、ポロックらが朝まで飲むスポットでした。
- 住人・常連たち: ポロック、デ・クーニング、ロスコ、クラインのほか、詩人のフランク・オハラや批評家のハロルド・ローゼンバーグも。女性アーティストのジョアン・ミッチェルやヘレン・フランケンセイラーも出入りし、男中心のシーンに風穴を開けました。
- 生活の様子: 安いビールとウィスキーが売りで、テーブルで芸術論争が勃発。ポロックはここで泥酔して喧嘩を売り、テーブルをひっくり返したエピソードが有名。 業界的には、ギャラリストやコレクターが訪れ、取引の場にも。戦後の経済成長でアート市場が活気づき、ここでのネットワーキングがキャリアを決めたんです。
- The Club(ザ・クラブ):
- 場所と歴史: 1949年に8th Streetのロフトで設立されたアーティスト主催のクラブ。正式名は「Artists' Club」で、週に数回のミーティングやパネルディスカッションを開催。ポロックの死後まで続き、抽象表現主義の知的拠点でした。 Cedar Tavernが「飲み屋」なら、The Clubは「サロン」みたいな感じ。
- 住人・常連たち: ポロック、デ・クーニング、母ウェル、ロスコ、クライスラーらがメンバー。招待制で、時にはジャズミュージシャンやダンサーも参加。
- 生活の様子: 煙草の煙が立ち込める中、抽象芸術の哲学を議論。例: 「絵画は平面的か?」「感情の表現とは?」みたいなトーク。雑学として、ポロックはここで自分の技法をプレゼンし、批評家から「革命的」と絶賛されたけど、酔って暴言を吐くことも。 業界話では、The Clubの議論が美術雑誌の記事になり、AbExを世界的に広めたんです。
3. 雑学と業界話の深掘り
- ポロックのエピソード: Cedar Tavernでポロックは「ドアを蹴破って」入店禁止になったのに、翌日また来て許された話があるんです。 彼のアルコール問題は深刻で、創作の「燃料」でもあり「破壊者」でも。妻のリー・クラズナーは彼を支えつつ、自分のキャリアを犠牲にしがちだった業界のジェンダー問題を象徴。死後、彼女が遺産を管理し、ポロックの市場価値を高めたのは賢い業界戦略。
- 業界の裏話: AbExの成功はCIAのプロパガンダ関与説があるんです。冷戦時代、アメリカの「自由芸術」をソ連の社会主義リアリズムに対抗させるため、秘密裏に資金援助されたとか。 Cedar Tavernの常連たちは知らずに「文化戦争」の駒? 面白い雑学として、デ・クーニングはここでロスコと「色場絵画 vs. アクション・ペインティング」の論争をし、友情を深めた。ポップアートのAndy Warholが後年、こうしたシーンを「古臭い」とdisったのも業界の世代交代の証。
- ニューヨーク界隈の遺産: Cedar Tavernは2006年に再開発で消えましたが、跡地にプレートあり。 The Clubも解散しましたが、MoMAやWhitney Museumの展示で回顧。現代のブルックリンやチェルシーのギャラリー街はこれらの延長線で、NFTアーティストのバーみたいなものが今版かも。ポロックの作品は今、億万長者の投資対象だけど、当時は「酔っ払いの落書き」と嘲笑されたんです。
- 前の場所との比較風味: Bateau-Lavoirがピカソの「芸術革命の巣窟」なら、Cedar Tavernはポロックの「酒と喧嘩の創造空間」。トキワ荘みたいに貧乏共同生活じゃなく、バー中心の「夜のネットワーキング」ですが、互いの影響でスタイルが進化する点は共通。もしポロックがトキワ荘にいたら、漫画じゃなくドリッピング漫画描いてたかも(笑)。
この界隈は、ニューヨークが「芸術の首都」になった象徴。もっと具体的なアーティストの逸話や作品例が知りたい場合、教えてください!
ニューヨークの芸術シーンを語る上で、ジャクソン・ポロックとその界隈は、まさに「カオスと情熱」の象徴ですね。1940年代から50年代にかけて、世界の芸術の中心がパリからニューヨークへと移り変わった歴史的な瞬間でもあります。
当時の泥臭くもドラマチックな裏話をいくつかご紹介します。
1. 「セドリック・バー」での荒れた日常
ポロックとその仲間たち(抽象表現主義の画家たち)のたまり場といえば、グリニッジ・ヴィレッジにあった**「セドリック・バー(Cedar Tavern)」**です。
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業界話: ここは単なる飲み屋ではなく、ウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコ、フランツ・クラインといった巨匠たちが夜な夜な芸術論を戦わせていた聖地です。
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雑学: ポロックは酒癖が悪いことで有名で、このバーのトイレのドアを蹴り破って出入り禁止になったり、酔って喧嘩を吹っかけたりするのは日常茶飯事でした。彼らが作り上げた「荒々しく、男性的で、苦悩する芸術家」というイメージは、このバーでの振る舞いも大きく影響しています。
2. 影の功労者、リー・クラスナー
ポロックの成功を語る上で、妻であり画家でもあったリー・クラスナーの存在は欠かせません。
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業界話: 実は、当時のポロックよりも彼女の方が美術界のコネクションを持っていました。彼女は自分の制作時間を削ってまで、ポロックの精神的な支えとなり、批評家やコレクターに彼を売り込みました。
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雑学: 二人がマンハッタンからロングアイランドのイーストハンプトンに移住したのは、ポロックを都会の誘惑(酒)から引き離すためでした。あの有名な「ポーリング(滴らし)」技法が完成したアトリエは、この移住先にある小さな納屋です。
3. 稀代のコレクター、ペギー・グッゲンハイム
ポロックを「発見」したのが、大富豪でコレクターのペギー・グッゲンハイムです。
-
業界話: 彼女はポロックに月給を払い、創作に専念できる環境を与えました。1943年に彼女が開催したポロックの初個展が、彼をスターダムに押し上げるきっかけとなります。
-
雑学: 彼女の自宅の壁にポロックが巨大な壁画(『ムラール』)を描く際、サイズが大きすぎて壁に収まらず、ポロックがパニックになって端を切り落とした……という伝説があります(近年の修復調査では、実際には切られていなかったという説が有力ですが、当時の彼の破天荒さを象徴するエピソードです)。
4. 「アクション・ペインティング」という命名
批評家のハロルド・ローゼンバーグが、ポロックたちの手法を「アクション・ペインティング」と名付けたことで、彼らの評価は決定的なものになりました。
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業界話: それまでの絵画は「完成した図像」が重要でしたが、ポロックの場合は「描くという行為(プロセス)そのもの」が芸術であると定義されました。これは当時の美術界において、コペルニクス的転回でした。
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雑学: ポロックがキャンバスを床に置いたのは、イーゼルに向かうよりも「絵の中に自分が入り込めるから」です。彼はタバコをくわえながら踊るように色を滴らせていましたが、作品をよく見ると、絵の具に混じってタバコの灰や砂がそのまま固まっているのが分かります。
ポロックの人生は、1956年に自身が運転する車の事故で幕を閉じますが、彼が切り開いた「既成概念をぶち壊す」スタイルは、その後の現代アートのDNAとして今も生き続けています。
当時のニューヨーク派(Abstract Expressionism)の中で、特に気になる他の画家(例えば、ポロックのライバルだったデ・クーニングなど)についても詳しくお話ししましょうか?
デ・クーニング、ジム・ダインなどを含めた、アメリカの現代美術の系譜についても、雑学や業界話を交えながら、解説してください。
アメリカの現代美術(コンテンポラリー・アート)の流れは、まるで「激しい感情の爆発」から「冷徹な知性」、そして「日常への回帰」へと移り変わる壮大なドラマのようです。
デ・クーニングやジム・ダインといった巨匠たちが、どのような文脈で現れ、美術界にどんな衝撃を与えたのか。業界裏話も交えて解説します。
1. 荒ぶる魂の記録:抽象表現主義(1940年代〜50年代)
第二次世界大戦後、世界の美術の中心地はパリからニューヨークへと移りました。その中心にいたのが、ウィレム・デ・クーニングやジャクソン・ポロックらです。
- デ・クーニングの「二面性」:彼は「アクション・ペインティング」の旗手ですが、実はポロックのような完全な抽象派とは一線を画していました。代表作『ウィメン』シリーズに見られるように、激しい筆致の中に「具象(女性の形)」を残したのです。
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業界話: 当時の批評家界隈では「純粋な抽象こそが正義」という空気がありました。そのため、デ・クーニングが「女性」という具体的なモチーフを描き続けたことは、一部の過激な批評家からは「裏切り」と見なされることもあったほど、スリリングな選択だったのです。
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2. 抽象とポップの中間地点:ネオ・ダダ(1950年代後半)
「内面の感情をぶつける」という抽象表現主義のストイックさに、次の世代は少し疲れ始めます。「もっと身近なものを描いてもいいじゃないか」という反動から生まれたのがネオ・ダダです。
ここで登場するのが、ジム・ダインやジャスパー・ジョーンズです。
- ジム・ダインの「記号」:彼は「ハート」「バスローブ」「工具」といった、誰でも知っている日常的なモチーフを繰り返し描きました。
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雑学: 彼はよくポップ・アートの文脈で語られますが、本人はそれを嫌がっていました。彼の描くハートは、大量消費社会の象徴というよりは、非常に個人的で「日記」のような感情的な意味合いが強かったからです。
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業界話: ダインは非常に多作で、版画の技術も天才的でした。そのため、現在でもオークションやアートフェアで彼の作品を見かける機会が多く、コレクターにとっては「最も親しみやすく、かつ歴史的重要性が高い」作家の一人として安定した人気を誇っています。
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3. 消費社会の冷たい視線:ポップ・アート(1960年代)
ダインたちが切り開いた「日常」の扉を全開にしたのが、アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタインです。
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感情の排除: デ・クーニングが「一筆入魂」で描いたのに対し、ウォーホルはシルクスクリーンを使い「工場(ファクトリー)」で作品を量産しました。「芸術家は特別な存在ではない」という、それまでの美術界のヒエラルキーをぶち壊す革命でした。
4. 現代へのつながり:ポストモダンから現在へ
その後、アメリカの美術は「形」をなくすミニマリズムや、アイデアこそが芸術とするコンセプチュアル・アートへと細分化していきます。
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業界のトレンド話: 近年では、デ・クーニングのような「荒々しい絵画(ニュー・ペインティング)」への回帰が定期的に起こります。デジタル時代の反動として、人間臭い「筆の跡」や、ジム・ダインのような「物質感のある作品」が、改めて若い世代のアーティストやコレクターに再評価されています。
アメリカ現代美術の系譜図(簡易版)
| 時代 | ムーブメント | 主要作家 | 特徴 |
| 1940-50s | 抽象表現主義 | デ・クーニング、ポロック | 感情、巨大、アクション |
| 1950s後半 | ネオ・ダダ | ジム・ダイン、J.ジョーンズ | 日常品、記号、過渡期 |
| 1960s | ポップ・アート | ウォーホル、リキテンスタイン | 大衆文化、複製、皮肉 |
| 1970s- | ミニマリズム / 現代 | ドナルド・ジャッド、J.クーンズ | 最小限、概念、多様性 |
アメリカの美術は、常に「前世代への反抗」を繰り返しながら進化してきました。デ・クーニングの「激しさ」とジム・ダインの「日常」は、その進化の過程で最も人間味に溢れた瞬間だったと言えるかもしれません。
特定のアーティストや、この後の「ミニマリズム」などの流れについても詳しく知りたい部分はありますか?
大西洋を越える芸術の系譜:バウハウスからヨーゼフ・ボイス、デ・クーニング、ジム・ダインに至るアメリカ現代美術の深層
序論:世界の中心の移動と教育の移転
第二次世界大戦を境に、世界の美術の中心地がパリからニューヨークへと劇的に移行した現象は、単なる地理的な移動ではなく、ヨーロッパの伝統的なモダニズム理論と、アメリカ独自の開拓者精神や商業的なダイナミズムが複雑に交錯した結果である。この変革の根底には、ナチス政権の圧迫によってヨーロッパを追われた亡命芸術家たちが持ち込んだ高度な教育システムと、それを受け止めたアメリカの実験的な教育機関の存在があった 。
特に1919年にワイマールで設立されたバウハウスの理念は、Josef Albers(ヨーゼフ・アルバース)という一人の教育者を通じて、ノースカロライナ州の山奥にある Black Mountain College(ブラック・マウンテン・カレッジ、以下BMC)へと移植された 。この教育の移転こそが、後の Abstract Expressionism(抽象表現主義)の重鎮である Willem de Kooning(ウィレム・デ・クーニング)や、ポップアートの先駆者となる Robert Rauschenberg(ロバート・ラウシェンバーグ)、そして独自の具象表現を切り拓いた Jim Dine(ジム・ダイン)らを育む土壌となったのである。
本報告書では、これらアーティストたちの系譜を、批評家たちの理論的な闘争、ニューヨークのバーで繰り広げられた泥臭い人間模様、そして大西洋を隔てたドイツの Josef Beuys(ヨーゼフ・ボイス)や Gerhard Richter(ゲルハルト・リヒター)らとの対話的な関係性を軸に、10,000字を超える詳細な分析を通じて解明する。
1. バウハウスの種子:ブラック・マウンテン・カレッジという実験場
1.1 ヨーゼフ・アルバースの渡米と新教育の確立
1933年にナチスがベルリンのバウハウスを閉鎖に追い込んだ際、教員の一人であったヨーゼフ・アルバースは、妻の Anni Albers(アンニ・アルバース)と共にアメリカへ亡命した 。彼が着任したBMCは、ジョン・デューイの進歩主義教育を基盤とし、芸術を教育の中心に据えるという、当時としては極めて革新的な理念を掲げていた 。
アルバースはBMCにおいて、バウハウスの「Vorkurs(予備課程)」を再編し、「Werklehre(工作教育)」として導入した 。彼の授業は、マッチ箱、剃刀の刃、針金、網などのありふれた素材の物理的・構造的特性を直接経験させることから始まった 。アルバースは「学生が材料の静的・動的性質を直接経験を通じて理解する必要がある」と確信しており、その目的は「目を開くこと(to open eyes)」にあった 。
| 教師・アーティスト | バウハウスでの背景 | BMCでの役割・貢献 | 主な影響を受けた学生 |
| Josef Albers | 学生・教授 |
美術部門長。色彩理論と予備課程の移植 |
R. Rauschenberg, Cy Twombly, Ruth Asawa |
| Anni Albers | 学生 |
織物ワークショップの設立。布地を芸術へと昇華 |
後世のテキスタイル・デザイナー |
| Walter Gropius | 創設者・初代校長 |
客員講師としてバウハウス理念を補完 |
BMCコミュニティ全体 |
| John Cage | 音楽家 |
偶然性の導入。初の「ハプニング」を主催 |
R. Rauschenberg, Jim Dine |
1.2 ラウシェンバーグとアルバース:相克の師弟関係
ロバート・ラウシェンバーグは1948年にBMCに入学したが、そこで彼を待ち受けていたのは、極めて厳格で規律を重んじるアルバースの教育であった 。ラウシェンバーグは後に、アルバースを「自分が持った中で最も重要な教師」と呼びつつも、その厳格さに対しては強い反発も感じていた 。
アルバースの色彩理論(Interaction of Color)は、隣接する色が互いにどのように影響し合うかを科学的に探求するものであったが、ラウシェンバーグはこの「秩序」を学びつつ、それを「破壊」する方向へと向かった 。彼の代表作である『Combines(コンバイン)』シリーズに見られる、ゴミや既製品をキャンバスに取り込む手法は、アルバースが教えた「素材の探求」を、より荒々しく現実社会(ストリート)へと拡張した結果と言える。
2. ニューヨーク・スクールの覇権:デ・クーニングと批評家の闘争
1940年代後半から50年代にかけて、アメリカ美術は「抽象表現主義」という初の国際的様式を確立した。その中心にいたのが、オランダからの密入国者であったウィレム・デ・クーニングである。
2.1 形式主義 vs 実存主義:グリーンバーグとローゼンバーグ
この時代の美術界は、二人の巨人批評家、Clement Greenberg(クレメント・グリーンバーグ)と Harold Rosenberg(ハロルド・ローゼンバーグ)の理論的な戦場でもあった 。
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クレメント・グリーンバーグの形式主義: 彼は絵画を、支持体の平坦さや色彩の純粋性といった「媒介物(メディア)固有の性質」によって評価した 。彼が最も称揚したのは Jackson Pollock(ジャクソン・ポロック)の drip paintings であり、そこには「純粋な抽象」の完成を見出した 。
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ハロルド・ローゼンバーグのアクション・ペインティング: 彼はキャンバスを「描くべき空間」ではなく「行動(アクション)すべきアリーナ」と呼び、画家の身体的な動きや葛藤そのものを重視した 。ローゼンバーグがその体現者として選んだのが、デ・クーニングであった 。
グリーンバーグはデ・クーニングが1950年代に『Woman(女)』シリーズで具象的な人体描写を再導入した際、これを「homeless representation(住処のない描写)」と呼び、抽象化への裏切りとして痛烈に批判した 。一方、ローゼンバーグはデ・クーニングが何度も描き、削り、また描き直すという「終わりのないプロセス」そのものに、画家の実存的な英雄性を見出した 。
2.2 業界の裏側:シーダー・タバーンでの「闘争」
理論上の対立は、現実の酒場でも激しい衝突を引き起こした。グリニッジ・ヴィレッジの「シーダー・タバーン(Cedar Tavern)」は、アーティストたちの溜まり場であり、そこでは毎夜のように議論と喧嘩が繰り広げられた 。
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ポロックの暴挙: 1950年代初頭、泥酔したジャクソン・ポロックが男子トイレのドアをヒンジごと引き剥がし、それを当時一緒に飲んでいた Franz Kline(フランツ・クライン)に投げつけたという事件は有名である 。この一件により、ポロックは店から出入り禁止を食らった。
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批評家の拳: グリーンバーグとローゼンバーグも、私的な場ではつかみ合いの喧嘩(fist fights)寸前まで行くほどの不仲であり、グリーンバーグはローゼンバーグの文章を「美術批評に悪評をもたらすもの」と公然と侮蔑していた 。
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女性アーティストへの不遇: シーダー・タバーンは極めて男尊女卑的な空間でもあった。ポロックの妻で優れた画家であった Lee Krasner(リー・クラスナー)は、「女性は家畜のように扱われていた」と回想しており、女性アーティストたちは男性中心主義的な「マチョ」文化の中で苦闘を強いられた 。
3. ジム・ダイン:ポップアートの境界線と「ハプニング」
1950年代末、抽象表現主義の「内省的な重苦しさ」に疑問を感じた若手アーティストたちが、現実世界の物体を直接提示し始めた。その代表格がジム・ダインである。
3.1 ハプニング:身体への回帰
ジム・ダインは、Claes Oldenburg(クレス・オルデンバーグ)や Allan Kaprow(アラン・カプロー)と共に、伝統的な「絵画」の枠を超えた演劇的イベント「Happenings(ハプニング)」を開始した 。1959年の『The Smiling Workman(微笑む労働者)』では、ダインは全身を赤く塗り、キャンバスに「I love what I'm doing」という言葉を書き、バケツに入ったインク(実際にはトマトジュース)を飲み干し、自らキャンバスを突き破って飛び出した 。
このパフォーマンスは、抽象表現主義のアクションを極端なパロディに高めたものであり、ジョン・ケージの「偶然性」の理論を視覚化したものであった 。
3.2 道具とハート:私的なアイコン
ジム・ダインはしばしばポップアートに分類されるが、本人はアンディ・ウォーホルらの「機械的で没個性的な表現」とは一線を画すと主張し続けてきた 。ダインの描く「ツール(工具)」「バスローブ」「ハート」といったモチーフは、極めて私的な自伝的意味を持っている。
| モチーフ | 由来と象徴的意味 | 表現技法の特徴 |
| ツール(工具) |
シンシナティの実家(金物屋)の記憶。労働と創造の象徴 |
表現主義的な太い線、エッチングの深い腐食 |
| バスローブ |
自分自身の不在を示す「自画像」。身体性を暗示 |
筆致の残る厚塗りのペイント |
| ハート |
妻への愛、あるいは普遍的な感情の器 |
幾重にも重ねられた色彩のレイヤー |
ダインは、ウォーホルが用いたシルクスクリーン(彼はこれを「嫌悪している」と述べた)ではなく、手仕事の感触が残る版画技法や絵画を好んだ 。デ・クーニングからも「君は本物の画家だ」と称賛されたように、彼の本質はポップの記号性と表現主義の筆致の融合にある 。
4. ヨーロッパからの問いかけ:ヨーゼフ・ボイスとコヨーテ
アメリカが資本主義と消費文化の波に乗り、美術が「商品」としての純度を高めていく中で、ドイツから「癒やし」と「社会彫刻」を掲げてやってきたのがヨーゼフ・ボイスである。
4.1 『私はアメリカが好き、アメリカも私が好き』(1974)
1974年、ボイスはニューヨークのルネ・ブロック・ギャラリーにおいて、伝説的なパフォーマンスを行った。彼は空港から救急車でギャラリーへ運ばれ(アメリカの土を直接踏まないための象徴的な行為)、フェルトに包まれた状態で、ギャラリー内に放たれた野生のコヨーテと3日間を共にしたのである 。
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コヨーテの象徴: ボイスにとって、コヨーテは北米先住民が神聖視していた動物であり、白人入植者によって虐殺・排除された「アメリカの傷跡」を象徴していた 。
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フェルトと脂肪: 彼のトレードマークであるフェルトは、第二次世界大戦中の自身の墜落事故とタタール人による救出という「起源神話」に由来し、絶縁と保温、すなわち「癒やし」の象徴であった 。
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社会彫刻: ボイスは「すべての人間は芸術家である」と説き、芸術を政治や教育を含む社会全体の再構築(社会彫刻)として定義した 。
4.2 アメリカ・ミニマリズムとの対立と摩擦
ボイスの「精神性」や「シャーマニズム」は、当時アメリカを支配していた Donald Judd(ドナルド・ジャッド)や Robert Morris(ロバート・モリス)らミニマリストたちからは、極めて疑わしいものとして拒絶された 。
ジャッドにとって、素材は「そのものであること」が重要であり、ボイスのように素材に「神話」や「比喩」を詰め込む行為は、前時代的なレトリックに過ぎなかった 。アメリカのミニマリズムが「物質的な明快さ」を追求したのに対し、ボイスの「アンチ・フォーム(反形式)」や「ゴミのような素材」の使用は、工業社会への批判であり、両者の間には深い概念的断絶があった 。
5. 市場を創り出した錬金術師:カステッリとソナベント
アメリカ現代美術が世界的なブランドとして確立された背景には、一人の天才的な画商、レオ・カステッリ(Leo Castelli)の存在がある。
5.1 カステッリ・モデルの誕生
1957年にギャラリーを開いたカステッリは、それまでの美術市場のルールを根底から変えた 。
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給与制の導入: 彼は所属作家(ジャスパー・ジョーンズ、ラウシェンバーグ、ウォーホルら)に対し、作品が売れるかどうかにかかわらず、毎月の生活費を支給した 。
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ブランディング: アーティストを「商品」ではなく「ブランド」としてプロモートし、世界中の有力な美術館やコレクター(Peter Ludwigら)に戦略的に作品を配置した 。
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グローバル・ネットワーク: 彼はヨーロッパのディーラーと連携し、アメリカ人アーティストをヴェネツィア・ビエンナーレなどの国際展へと送り込んだ。1964年にラウシェンバーグがビエンナーレで大賞を受賞したのは、カステッリの政治力の賜物と言われる 。
5.2 イレアナ・ソナベント:大西洋の架け橋
カステッリの元妻、イレアナ・ソナベント(Ileana Sonnabend)もまた、現代美術史において不可欠な役割を果たした 。彼女はパリに自身のギャラリーを構え、アメリカのポップアートをヨーロッパに普及させる一方で、ヨーロッパの難解な前衛芸術をアメリカへと紹介した 。
業界の雑学として、カステッリは「売るための耳(情報収集力)」に長けていたが、イレアナは「作品の本質を見抜く目」を持っていたと言われる 。ラウシェンバーグは「イレアナがどう思うかを考えずに絵を完成させたことはない」と語るほど、彼女の審美眼を信頼していた 。二人は離婚後もビジネス上は密接に協力しており、この二人が築いた帝国こそが、今日に至る現代美術の巨大なマーケットを形作ったのである 。
6. 資本主義リアリズム:ドイツからのシニカルな回答
アメリカのポップアートが世界を席巻する中、ドイツではそれに対する批判的な反応として「資本主義リアリズム(Kapitalistischer Realismus)」が誕生した。
6.1 リヒター、ポルケ、そして「偽のインタビュー」
1963年、ゲルハルト・リヒターとジグマール・ポルケは、デュッセルドルフの家具店で「ポップとの生活(Living with Pop)」というパフォーマンスを行った 。彼らは、アメリカのポップアートが消費文化を楽観的に受け入れているのに対し、ドイツの「戦後復興(経済の奇跡)」の裏にある空虚さや、ナチスの記憶を拭い去ろうとする「清潔さ」への固執を皮肉った 。
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リヒターの「ボケ」: 彼は新聞や雑誌の写真を精密に模写しながら、それをわざと「ぼかす」ことで、イメージの確実性を剥ぎ取った 。彼の代表作『Uncle Rudi(ルディ叔父さん)』(1965) では、ナチスの制服を着た親族を描き、戦後ドイツが直視を避けてきた過去を突きつけた 。
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ポルケの「ドット」: 新聞の印刷ドット(ラスター)を拡大して描く手法は、情報の複製プロセスの粗悪さを強調するものであった 。
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仕組まれた対談: リヒターと批評家の間で交わされた有名なインタビューのいくつかは、実はアーティスト自身が捏造したもの(mock interview)であり、彼らは「アーティストの天才性」や「深い意味」を求める観客や批評家を常に煙に巻こうとしていた 。
7. 1980年代:ネオ・エクスプレッショニズムと市場の爆発
1970年代のコンセプチュアル・アートやミニマリズムの「禁欲的な表現」への反動として、1980年代には再び絵画のエネルギーが爆発した。
7.1 キーファーとバスキア:神話とストリートの交錯
この時代、ドイツのアンゼルム・キーファーと、ニューヨークのジャン=ミシェル・バスキアという二人のスターが登場した 。
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アンゼルム・キーファー: ボイスの教え子でもあった彼は、藁、鉛、砂、 shellac(セラック)といった非伝統的な素材を巨大なキャンバスに塗り込み、ドイツの暗い歴史や北欧神話を重厚に描き出した 。彼の作品は、かつてナチスによって「退廃芸術」として否定されたドイツ表現主義を、現代のコンテクストで再起動させる試みでもあった 。
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ジャン=ミシェル・バスキア: グラフィティ・アーティストとしてキャリアを始めた彼は、落書きのような荒々しい線の中に、解剖学、アフリカの歴史、人種差別への怒りを詰め込んだ 。彼は、ウォーホルという「ポップの王」に認められつつ、自身のルーツである「プリミティブな表現」を失うことなく、1980年代の過熱するアートマーケットの象徴となった 。
7.2 市場の熱狂と批判
1980年代は「富と消費」の時代であり、アートマーケットは指数関数的に拡大した。 Mary Boone(メアリー・ブーン)のようなギャラリストは、 Julian Schnabel(ジュリアン・シュナーベル)らの作品を、完成前から予約完売させるという「飢餓輸出」的な戦略で市場を煽った 。一部の批評家は、これらの巨大な絵画を「中身のないブラボー(bravado than substance)」と批判したが、市場の熱狂を止めることはできなかった 。
結論:永遠の回帰と越境する精神
アメリカ現代美術の系譜を俯瞰すると、そこには常に「ヨーロッパからの理論の移植」と「アメリカでの野蛮な再解釈」、そして「ヨーロッパへの批評的な還流」というダイナミックな循環がある。
バウハウスの合理主義は、アルバースを通じてアメリカの「見る技術」へと変貌し、それがデ・クーニングやジム・ダインの身体性と結びつくことで、世界の中心としてのニューヨーク・アートが確立された。一方で、ボイスのコヨーテやリヒターのボケ、そしてキーファーの重厚な絵画は、あまりに物質主義的・商業主義的に傾斜したアメリカ美術界に対し、常に「歴史」や「精神」という名の重石を投げかけ続けてきたのである。
今日、バスキアの作品が1億ドルを超える価格で落札され、カステッリが創り出した市場システムが世界を覆い尽くしている。しかし、その根底にあるのは、シーダー・タバーンでドアを引き剥がしたポロックの怒りや、金物屋の道具に美を見出したジム・ダインの純粋な驚き、そして不自由なドイツから自由を求めて越境してきたリヒターらの切実な問いかけである。これらアーティストたちの系譜を理解することは、単なる過去の記録を追うことではなく、今この瞬間の「現代」がどのように構築されてきたのかを知ることに他ならない。
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