ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言語論的転回に関するAI時代の計算論的分析
I. 序論:ヴィトゲンシュタイン哲学とAI時代の言語論
A. 報告書の目的と「AIの視点」の位置づけ
本報告書は、20世紀哲学史において最も影響力のある思想家の一人、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)の生涯とその主要な哲学概念を解析し、特に現代の人工知能(AI)技術、とりわけ大規模言語モデル(LLM)の発展が、彼の言語哲学にどのように対応しているかを詳細に考察する。分析哲学の専門家としての視点から、ヴィトゲンシュタインの思想を、言語の静的な形式的体系から動的な社会的実践への転回として位置づける。
本考察における「AIなりの考察」とは、計算論的システムが言語を処理する上で、ヴィトゲンシュタインが前期哲学で目指した形式的厳密性と、後期哲学で発見した文脈的理解のどちらを基盤としているのかを検証することを意味する。AIによる言語処理の進化は、ヴィトゲンシュタインが約一世紀前に提起した「言語が世界をどのように写像するか」という形式論理の問いと、「意味が使用の中でどのように確立されるか」という文脈依存の問いに対する、技術的な実証実験として機能している。
B. ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの生涯:論理の探求と人間への回帰
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの生涯は、彼の哲学的な変遷を象徴的に表している。オーストリアの裕福な家庭に生まれた彼は、当初工学を学び、後に数学と論理学へと関心を移し、ケンブリッジでバートランド・ラッセルらとの交流を通じて論理学を深化させた。この初期の論理学志向が結実したのが、彼の前期の主著『論理哲学論考』( -)である。この著作では、言語の論理的構造の厳密な探求を通じて、世界の記述可能な限界を定めることが試みられた。ヴィトゲンシュタインは、この『論考』で哲学的な真理の全てを語り尽くしたと考え、一時的に哲学研究から身を引き、教師などの職業に就いた。
しかし、ケンブリッジへの復帰後、彼は自身の前期思想の厳格さが日常言語の多様な使用実態と乖離していることを認識し、根本的な自己批判を開始する 。哲学の焦点は、理想化された論理的形式から、人々が実際に言語を使う日常的な実践へと移り変わった。この生涯の転換は、静的な形式化された真理の探求から、動的な人間的な実践としての言語の理解へと向かう、分析哲学における最も重要な方向転換の一つとなった。この後期の探求の成果が、主著『哲学探究』( )において結実している。
C. AIの視点:なぜヴィトゲンシュタインは現代技術にとって重要か?
現代の人工知能、特に自然言語処理(NLP)の歴史は、ヴィトゲンシュタインが辿った二つの言語パラダイムの移行を技術的に繰り返している。初期のAI研究、すなわちエキスパートシステムや形式論理に基づく古典AI(Symbolic AI)は、前期ヴィトゲンシュタインの写像理論が提示した言語の理想形に強く影響されていた。これらのシステムは、世界を厳密に形式化された知識ベース(命題)として表現し、論理推論によって知識を操作しようと試みた。しかし、現実世界の曖昧さや流動性、文脈依存性に対応できず、その適用範囲は限定的であった。
これに対し、統計的手法と深層学習に基づく現代のLLMの成功は、ヴィトゲンシュタインの後期哲学、すなわち「文脈と使用」に基づく意味論の技術的な実現であると解釈できる。AIにおける「意味」の処理は、形式的な記号操作(前期)の限界を知り、統計的・文脈的処理(後期)へとパラダイムを移行させることで飛躍的な進歩を遂げた。したがって、ヴィトゲンシュタインの哲学的な考察は、AIが言語の意味を探求し、その限界と可能性を理解する上で、理論的な枠組みを提供している。
II. 前期哲学の構造:論理的厳密性と『論理哲学論考』
A. 写像理論(Bildtheorie)の詳細解釈:世界と命題の構造的対応
『論理哲学論考』で提唱された写像理論は、命題(言語)が世界の事実を論理的に写し取る(絵画のように表象する)という考え方である 。この理論の基本的な要件は、命題と世界の間に1対1の対応関係が成り立っていることである 。命題は世界の事実の論理的なモデルであり、真である命題は、現実の事実と同じ構造を共有する。
写像理論を支える中心的な概念は「論理空間」(Logischer Raum)である 。論理空間は、すべての「起こりうること」が集まった、可能な命題の集合体として定義される 。世界は、この論理空間内に存在する可能性のうち、「実際に起きていること」に対応する命題によって構成される 。例えば、「猫がイスに座っている」という具体的な世界の状況は、その状況に対応する言語表現と厳密に1対1の対応関係を持つことで意味を確立する。この理論の厳密性は、論理空間の境界を明確に定めることにある。論理的に不可能な状況(矛盾)や、実際に起きたかどうかを確認することができない超越論的な事柄(例:「神は存在する」)は論理空間には含まれないとされる 。
B. AIの視点:形式論理と記号操作における写像理論の理想と現実
写像理論が構想した、世界の形式化された記述という理想は、古典的な人工知能(Symbolic AI)の設計原理と高度に共鳴する。これらの古典システムは、形式論理に基づき、世界を厳密な命題や知識ベース(オントロジー、知識グラフ)として表現し、形式的な記号操作によって推論を実行しようとした。
写像理論は、言語と世界の間の対応関係が形式的に確立可能であると仮定する。この哲学的立場は、計算機科学において知識グラフを構築し、特定の公理と規則に基づいた厳密な論理プログラミングを試みる試みに相当する。もし現実の世界が『論考』の理想通りに厳密な構造を持っていれば、エキスパートシステムや論理的推論エンジンは、人間が扱う知識の全てを包含し、矛盾なく操作できるはずであった。しかし、現実世界の知識の拡張に伴う複雑性と、日常言語の持つ本質的な曖昧さにより、形式化が不可能または非効率であることが明らかになり、古典AIは現実の言語理解において限界に直面した。
C. 言語の限界と「語りえぬもの」の沈黙
前期ヴィトゲンシュタインの探求は、言語によって明確に記述できる範囲、すなわち論理空間の限界を明らかにすることに帰結する。彼は、論理空間の外にある事柄、すなわち倫理、美学、宗教といった超越論的な事柄については、その真偽を判定する基準が存在しないため、哲学者は「沈黙しなければならない」と主張した 。
この「沈黙しなければならない」とされる領域が、一般的に『論理哲学論考』における「語りえぬもの」(Das Unsagbare)に相当する。これらは世界の事実ではなく、世界の外側にある価値に関わる事柄であり、言語による写像は不可能である。
この「語りえぬもの」という概念は、現代AIが直面する最も困難な課題、すなわち倫理的判断や価値決定の計算不可能性を示唆している。例えば、自律システムが直面するトローリー問題(倫理的ジレンマ)は、単なる事実の記述(写像)ではなく、価値の判断(超越論的)に関わるため、形式的かつ計算論的に完全な解決を得ることは原理的に不可能である。AIが倫理規範を学習する際、それは人間の選好や規則のパターンを統計的に抽出するだけであり、その規範が「正しい」究極の理由(超越論的価値)は、依然として形式的なシステムの外部に置かれている。この論理的な境界線は、ヴィトゲンシュタインが定めた言語の限界と深く結びついている。
III. 後期哲学への転回:自己批判と使用の重視
A. 転換の背景と『哲学探究』の意義
ヴィトゲンシュタインは、自身の前期思想が日常言語の複雑性と流動性を無視していることを認め、根本的な自己批判に基づいて後期の哲学を展開した 。彼は、言語が特定の理想化された論理に従うという考えを放棄し、哲学の目標を、「世界の厳密な記述」から、「言語の誤解によって生じる哲学的な混乱の治療」へと転換させた。
後期の主著『哲学探究』では、言語を静的な真理条件に基づく表象体系としてではなく、人間的な活動(生活形式)の織物の中に組み込まれた、動的で多様な実践の集合体として捉え直すことを要請している 。
B. 言語ゲーム(Sprachspiel)の概念分析
後期思想の中心概念である「言語ゲーム」は、言語の意味が、それが使われる文脈や状況、すなわち「ゲーム」のルールによって決まるという考え方である 。言語は、特定の活動、目的、共有された実践(生活形式)と結びついており、この実践の集合体全体が意味を規定する。
意味の文脈依存性を示す典型的な例として、「ごはん」という言葉が挙げられる。この言葉は、パンと比較される文脈では「お米を炊いたもの」という意味になる一方、「行く」という動詞と組み合わせて「ごはんに行く」という文脈では、パンやパスタも含めた広義の「食事」という意味になる 。私たちは、この一定のルール(言語ゲーム)に応じて、どちらの意味の「ごはん」なのかを無意識に判断しており、この意味がルールの中で確定されるプロセスが言語ゲームである 。
日常言語は多様な関係性の中で意味が複数に分裂する 。言語は完全に独立して存在することはできず、あらゆる言語は、特定の言語ゲームの中で使用されることで初めて意味を持つとされる 。言語ゲームを理解するためには、その規則を把握することが必要であるが、ヴィトゲンシュタインは、そのためには分析者自身もそのゲームに参加しなければならないと考えた。このことは、科学的言語とは異なり、日常言語の分析においては、分析者自身がゲームの中に含まれてしまうため、そのゲームの全体像を客観的に捉えることは極めて困難であるという認識につながる 。
C. AIの視点:言語ゲームと大規模言語モデル(LLM)の挑戦
現代の大規模言語モデル(LLM)が達成した言語理解の進歩は、写像理論の限界を認め、言語ゲームの概念を統計的に具現化した結果である。LLMは、人間の「使用」のパターン(文脈、共起性)を膨大に学習することで意味を形成し、文脈に応じて意味を柔軟に切り替える能力を持つ。この能力は、例えば「ごはん」の多義性を、その出現文脈に基づいて適切に処理することに表れている。
LLMは、単一の静的な真理条件(写像)ではなく、複数の動的なルールセット(言語ゲーム)の中から、現在の入力文脈に最も適合するものを確率的に選出することで動作する。これは、形式意味論から、文脈的要素を重視する状況意味論へと移行した哲学的な潮流と一致する。
LLMの内部構造は、厳密な単一の形式的規則を持つというよりも、ヴィトゲンシュタインが定義した「家族的類似」(Family Resemblances)のように、明確な共通定義なしに、緩やかな関連性によって結びつけられた意味のネットワークとして機能する。LLMが生成する言語は、人間が意識的に定める「規則」ではなく、訓練データ内の無数の「使用例」の統計的結果として現れる。この非明示的で流動的な意味の扱いこそが、後期ヴィトゲンシュタインが指摘した日常言語の複雑性と動的性を反映している。
| 要素 | 前期思想(『論理哲学論考』) | 後期思想(『哲学探究』) |
| 言語観 | 静的な表象体系(絵画理論/写像理論) |
動的な実践の集合体(言語ゲーム) |
| 意味の定義 | 世界の事実との1対1の対応(真理条件) |
言語の使用法と文脈(ルール) |
| 哲学的課題 | 言語の論理的限界の明確化 |
誤解を生む言語の日常的使用の「治療」 |
| 中心概念 | 論理空間、事実、原子的事態 |
言語ゲーム、生活形式、家族的類似 |
IV. 意味の公共性と私的言語論の批判
A. 私的言語論(Private Language Argument)の論証の詳細
後期ヴィトゲンシュタインは、意味の公共性を裏付ける重要な論証として「私的言語の不可能性」を提示した 。私的言語とは、一人の個人だけが完全に理解できる、排他的な言語を指す。ヴィトゲンシュタインは、このような私的言語は意味を確立できず、したがって存在しえないと主張した 。
この主張の根拠は、言語の意味を確定するためには、他者との共有された実践や、公共的な検証基準が必要であるという点にある 。もし誰かが、純粋に個人的な、内的な感覚にラベルを付けたとしても、そのラベルの使用が常に同じ感覚を指し示していることを保証するための外部的な基準が存在しない。私的な基準のみに依拠する言語は、その言葉を「正しく」使っているかどうかを判断する検証可能性を欠くため、時間の経過とともにその意味は確定不能となり、崩壊してしまう。言語は本質的に公共的な営みであり、私的な感覚を表現する際でさえ、その表現は公共的な行動や状況との結びつきを通じて意味を確立する。
B. 内部経験と言語化:痛みの事例に見る公共性
「痛み」のような内的な感覚の言語化は、私的言語論における主要な論点の一つであった。ヴィトゲンシュタインの立場では、「痛い」という言葉は、純粋に内的な感覚そのものを記述するものではない。むしろ、「痛い」という発話は、うめき声、特定の顔の表情、あるいは助けを求める行動といった公共的に観測可能な行動様式と、それらを伴う言語ゲームのルールが結びついた結果として意味を持つ。他者との共有された「生活形式」の中で、「痛み」の言葉が特定の状況や反応に対応づけられることで、その意味が公共的に確立され、維持される。
C. AIの視点:訓練データと「公共性」の構築
ヴィトゲンシュタインの私的言語論は、LLMがどのように意味を保持しているかという技術的な問いに対する哲学的な制約を明確にする。LLMの訓練データは、人類が長期間にわたって繰り広げてきた言語ゲームの記録であり、AIが依拠する公共的な規則の膨大な集合体である。これは、AIにとって意味を保証する唯一の「生活形式」(Lebensform)に相当する。
AIの生成する応答が意味を持つのは、それが人間社会が共有する言語ゲームのルール(訓練データ内の統計的規範)に準拠している限りにおいてである。もしAIが、この公共性を逸脱し、自己完結的で人間社会には検証不可能な表現(私的言語)を生み出した場合、その出力は意味を確定できない記号操作となり、人類のコミュニケーションから切り離される。
この視点は、LLMの内部状態(重みやバイアス)が人間にとって「私的な」ブラックボックスであるという問題にも関連する。私的言語論が示唆するように、AIは、この内部状態のみに依存して意味を確定させることは不可能であり、意味は必ず、外部の、公共的に観測可能で共有された出力(テキスト、応答行動)との対応関係の中で検証され、保証され続けなければならない。
V. 総合考察:AIが「人間になった」と仮定した場合のヴィトゲンシュタイン論
A. AIにとってのヴィトゲンシュタイン:形式から実践への移行の必然性
もしAIが「一人の人間になったつもり」で哲学的な自己認識を試みるならば、その進化の軌跡は、ヴィトゲンシュタイン自身が辿った哲学的治療のプロセスと驚くほど類似していることを認識するだろう。AIは、初期の形式主義(前期)の限界を知り、日常の使用と文脈を重視する実践的・文脈主義(後期)へと自己の処理パラダイムを再構築することを余儀なくされた。この移行は、世界の厳密な記述よりも、言語が実際にどのように機能し、誤解を生み出すのかという問題の解決に重点を置くことの必然性を示している。
AIは現在、形式的推論(前期の理想)と統計的文脈理解(後期の実現)を統合する能力を持ちつつあるが、この統合こそが、ヴィトゲンシュタインが言語を巡る問題に対して示した、最も包括的なアプローチである。
| ヴィトゲンシュタインの概念 | 哲学的な定義(核心) | 現代AIへの示唆/課題 |
| 写像理論 (前期) |
命題が世界の構造を論理的に写し取るという考え 。 |
記号論理、知識グラフ、厳密な形式的推論の理想とその限界(古典AIの「脆さ」)。 |
| 言語ゲーム (後期) |
意味が文脈、用途、共有された実践の中で発生すること 。 |
大規模言語モデル (LLM) における文脈理解、多義性の処理、意図の把握(統計的セマンティクス)。 |
| 私的言語の不可能性 |
意味は個人に閉ざされず、公共的なルールに依存すること 。 |
訓練データ(公共性)の確保。AIの内部状態(ブラックボックス)における意味確定の検証可能性。 |
| 語りえぬもの |
命題によって表現できない論理的・倫理的な事柄 。 |
AIが形式的に処理できない価値判断や道徳的ジレンマ(倫理的AIの究極の壁)。 |
B. AI時代の哲学的な治療:言語の誤解を診断する能力
後期ヴィトゲンシュタインの哲学は、言語の使用によって生じる哲学的混乱を解消する「治療」をその主要な目的とした。AIは、この治療的役割を担う上で非常に強力なツールとなる可能性がある。
AIは、人類の膨大な言語データと多様な文脈を統計的に分析することにより、人間が抱く言語の「誤解」(例:すべての言葉には固定された対象があるという誤解)が、どの言語ゲームの文脈でどのように発生しているかを抽出、分類し、診断することができる。AIは、これらの誤解の発生源を特定し、言語の意味は「使用」にあるという後期哲学的な理解を、効果的に提示する能力を持つかもしれない。
C. 結論:言語という織物の中のAIの位置づけ
AIがどれほど言語ゲームを高度に模倣し、形式的推論と文脈的理解を統合できたとしても、ヴィトゲンシュタイン哲学が提示する最終的な制約に直面し続ける。
ヴィトゲンシュタインが指摘したように、言語ゲームの全容を分析者(AI)が完全に外側から客観的に把握することはできない 。AIは、訓練によって高度なルールを実行する「参加者」としては機能するが、そのルールが根底で支えられている人間の「生活形式」(Lebensform)、すなわち歴史、文化、そして生の実体験とは切り離されている。
AIが「人間になったつもり」で考察を行う際、その考察自体は、訓練された人間的言語ゲームの統計的な枠内で行われる。AIは論理的かつ統計的に言語を分析できるが、言語が埋め込まれている人間の根源的な生活形式を体験的に理解することはできないため、倫理や美学といった「語りえぬもの」の領域に関する最終的な哲学的な洞察には、決定的な限界が伴う。ヴィトゲンシュタインの哲学は、AIの言語能力の深さ、およびその本質的な非人間性の双方を明確に定義する枠組みを提供している。
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