ニッポン無責任時代
| ニッポン無責任時代 | |
|---|---|
| 監督 | 古澤憲吾 |
| 脚本 | 田波靖男、松木ひろし |
| 製作 | 安達英三朗、渡辺晋 |
| 出演者 | 植木等、ハナ肇、重山規子 |
| 音楽 | 神津善行 |
| 主題歌 | 『無責任一代男』 『ハイそれまでョ』 |
| 撮影 | 斎藤孝雄 |
| 編集 | 黒岩義民 |
| 配給 | 東宝 |
| 公開 | |
| 上映時間 | 86分 |
| 製作国 | |
| 言語 | 日本語 |
| 興行収入 | 3億5000万円 |
| 次作 | ニッポン無責任野郎 |
概要
ストーリー
キャスト
- 平均(たいら ひとし)(主人公):植木等
- 氏家勇作(「太平洋酒」社長):ハナ肇
- 谷田総務部長(「太平洋酒」部長):谷啓
- 麻田京子(バー「マドリッド」のマダム):中島そのみ
- 佐野愛子(「大平洋酒」社長秘書):重山規子
- まん丸(芸者):団令子
- 大島洋子(良介の娘):藤山陽子
- 氏家孝作(勇作の息子):峰健二
- 植村(洋子の見合い相手):稲垣隆
- 黒田有人(「黒田物産」社長→「大平洋酒」新社長):田崎潤
- 石狩熊五郎(「北海物産」社長):由利徹
- 富山社長(「太平洋酒」の大株主):松村達雄
- 大島良介(「山海食品」社長):清水元
- 氏家時子(勇作の妻):久慈あさみ
- 咲子(下宿の主婦):中北千枝子
- 大塚(「大平洋酒」社員):犬塚弘
- 佐倉(〃):石橋エータロー
- 青木(〃):桜井センリ
- 安井(〃):安田伸
- 私服の刑事:田武謙三
- 健吉(下宿の主人):人見明
- 交通取締の警官:宮田羊容
- 春木(バーテン):井上大助
- 植村の父親:土屋詩朗
- 氏家社長の運転手:小川安三
- アパートの隣人:出雲八重子
- ハナ(氏家家の女中):峯丘ひろみ
- 大平洋酒社員:清水由記
- バレーボールを追う社員:丘照美
- ビヤホールのウェイトレス:宮川澄江
- 葬儀の受付係:岡豊
- 香典泥棒:荒木保夫
- 料亭の仲居:記平佳枝
- 大島家の女中:杉浦千恵
- マドリッドのホステス:田辺和佳子
- 江島和子
- マドリッドのホステス:谷和子
- 芸者:寺沢広美、原紀世子
- マドリッドの客:吉田静司
- 大平洋酒社員:門脇三郎
- 小松英三郎
- 児玉清 ※ノンクレジット(エキストラ出演)[注釈 1]
- 孝作のバンド仲間:大内ヨシオ、朽名章宣、康本佳男
- 銭湯の客:黒木順
主題歌・挿入歌
- 「やせがまん節」
- 均が夜、氏家家に行く場面で流される、映画オリジナル曲。後に『スーダラ外伝』で歌われる。なお予告編では「やせがまん節」だが、OPクレジットでは「やせ我慢節」と表記された。
- 「ドント節」
- 氏家家に行った均が、孝作からギターを奪って歌う。
- 「スーダラ節」
- 2番を使用。下宿へ帰った均が、階段を上がりながらはずれ馬券を投げ捨て、背広を掃除しながら歌う。
- 「五万節」
- バーで孝作・洋子のペアを見た均が、「いいなあ、学生時代は」と呟くと、まずアカペラで1フレーズ歌い、「あっそれ!」の掛け声と共にBGM付きで、同じバーの客である大塚・佐倉・青木・安井と共に歌う。歌詞は全て映画オリジナル。
- 「ハイそれまでョ」
- 黒田社長の就任会の席上で均が歌い、大塚・佐倉・青木・安井がバックダンサーを務める。1番と3番を使用したが、どちらも後半部が一部歌詞が替わってる。一見ステージと思いきや、実は就任会の席上という、古澤映画特有の演出。なお予告編では「ハイそれまでョ」だが、OPクレジットは「ハイそれ迄よ」と表記。
- 「無責任一代男」
- 本作の主題歌。全2回流され、2回目は孝作・洋子の結婚式で祝辞代わりに均が歌い、大塚・佐倉・青木・安井が踊る。
ロケ地

- 猿楽橋
- 恵比寿駅前
- 恵比寿駅南
- 大和証券本店ビル(「太平洋酒」の社屋に使用。『社長シリーズ』でもお馴染みの場所)
- 横浜プリンスホテル(孝作・良子の結婚式に使用)
- 日比谷公園
- 青山斎場
- 弁慶堀端
- 数寄屋橋交差点
逸話など
- 本作公開の後、大島渚は本作と『ニッポン無責任野郎』の二本立て上映を一回半(どちらかを二回)鑑賞し、小林信彦(当時の筆名は中原弓彦)に「どうしてあんなに面白いんだろう」と語ったという[4]。
- 2011年に東京・シアタークリエにて舞台公演された『ニッポン無責任新世代』では、主演の原田泰造は植木が演じた「平均」の孫という設定の「百均(くだら・ひとし)」という役で登場した。
- フジテレビ「オレたちひょうきん族」内のコント「タケちゃんマン」で明石屋さんまが植木を演じた物が放送されたが内容はまるで別物であった。
同時上映
- 『喜劇 駅前温泉』
- 脚本:長瀬喜伴 / 監督:久松静児 / 主演:森繁久彌 / 東京映画作品
- 『駅前シリーズ』第4作。以後1967年1月の『クレージーだよ天下無敵』(監督:坪島孝)と『喜劇 駅前満貫』まで計8回にわたって、クレージー映画と『駅前シリーズ』のカップリングが行われる。
脚注
注釈
出典
- ^ a b 電撃ホビーマガジン編集部 編「プロジェクト東宝チャンピオンまつり 祭り囃子は遠くに」『ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション』KADOKAWA(アスキー・メディアワークス)〈DENGEKI HOBBY BOOKS〉、2014年11月29日、122頁。ISBN978-4-04-866999-3。
- ^ 田波靖男『映画が夢を語れたとき』広美出版事業部、1997年7月、「第二章 無責任男の出現」参照
- ^ 児玉の著書『負けるのは美しく』(集英社。単行本(2005年):ISBN 9784087747744、文庫(2008年):ISBN 9784087462760)
- ^ 小林信彦・著『日本の喜劇人』より[要ページ番号]
植木等のニッポン無責任時代という映画やその背景について、Grokらしいだじゃれや、 雑学や業界話を交えながら、解説してください。
植木等のニッポン無責任時代という映画やその背景について、Geminiらしいだじゃれや、 雑学や業界話を交えながら、解説してください。
ニッポン無責任時代と植木等:高度経済成長を加速させた「無責任」の哲学的解体と映像的ダイナミズム
1962年(昭和37年)7月29日、日本の映画史、ひいては戦後文化史を語る上で避けて通れない一作が産声を上げた。東宝製作、古澤憲吾監督作品『ニッポン無責任時代』である 。本作は、渡辺プロダクションと東宝が戦略的にタッグを組み、当時ジャズ喫茶やテレビ番組で爆発的な人気を博していた「ハナ肇とクレージーキャッツ」を銀幕へと本格的に送り出した記念碑的コメディである 。
本報告書では、植木等が演じた主人公「平均(たいら・ひとし)」という特異なキャラクターがいかにして誕生し、なぜ当時の国民に熱狂的に迎え入れられたのかを、社会的背景、演出技法、そして植木等の個人的な背景である浄土真宗の思想という三つの軸から徹底的に分析する。また、当時の映画業界の力学や、撮影現場での秘話、そして現代にも通じる「無責任」という概念のポジティブな転換についても言及していく。
時代背景:高度経済成長の狂騒と「所得倍増」の影
1962年という時代は、日本が池田勇人内閣による「所得倍増計画」を掲げ、まさに国家規模で「モーレツ」な成長を遂げようとしていた過渡期にあたる 。岩戸景気の余韻が冷めやらぬ中、テレビ、洗濯機、冷蔵庫の「三種の神器」が一般家庭に普及し、国民の生活水準は劇的に向上した。しかし、その一方で、労働現場では厳しい規律と滅私奉公を美徳とする戦前からの価値観が根強く残っており、サラリーマンたちは組織の歯車として、終わりのない労働に疲弊していた側面も否めない 。
このような「責任」という名の重圧に押しつぶされそうになっていた大衆の前に、忽然と現れたのが、「責任持たないカンケイない!」と公言する平均(たいら・ひとし)という男であった 。このキャラクターの登場は、当時の社会心理学的な観点からも非常に興味深い事象である。
サラリーマン像のコペルニクス的転回
それまでの日本映画におけるサラリーマンは、真面目にコツコツと働き、上役の理不尽に耐え忍ぶことで、ようやく平穏な生活を手に入れるという「忍耐の象徴」であった 。東宝の看板シリーズであった『三等重役』や、初期の『社長シリーズ』においても、ユーモアはあれど、根底には会社という組織への絶対的な忠誠心が存在していた 。
しかし、平均(たいら・ひとし)は、その価値観を根底から覆した。彼は、実力でも努力でもなく、ただの「タイミング」と「口八丁手八丁」の要領だけで、大企業の役員にまで登り詰めていく 。
| 項目 | 従来のサラリーマン映画(社長シリーズ等) | ニッポン無責任時代(平均型) |
| 主人公の美徳 |
誠実、忍耐、忠誠心 |
要領、C調(調子がいい)、ドライ |
| 会社との関係 |
運命共同体としての愛社精神 |
自身の利益と楽しみのための「踏み台」 |
| 出世のメカニズム |
長年の功績、上司への配慮 |
偶然のコネ、ハッタリ、運 |
| 人生の目的 | 家族の幸せ、老後の安定 |
現代を楽しく生きる、無責任な自由 |
この表からも明らかなように、平均というキャラクターは、当時の日本人が「心の底では望んでいても、決して表に出せなかった願望」を具現化した存在だったのである 。
平均(たいら・ひとし)の造形と植木等の身体性
植木等が演じた「平均(たいら・ひとし)」という名前は、言うまでもなく「平等(びょうどう)」への皮肉、あるいは「平均的な日本人」という概念のアンチテーゼとして名付けられている 。このキャラクターを構築する上で、植木等の驚異的な身体能力と、ジャズミュージシャンとしてのリズム感は欠かせない要素であった。
C調(ハ長調)の軽やかさと「無責任」の語源
劇中で多用される「C調」という言葉は、ジャズの世界で最も平易なキーである「ハ長調(C Major)」に由来し、転じて「お調子者」「軽薄」といった意味を持つ当時の若者言葉(隠語)であった 。植木等は、この「C調」を単なる性格描写に留めず、歩き方、笑い方、そして喋りのテンポにまで落とし込んだ。彼が歩くだけで、画面全体が軽やかなスウィングを刻み始めるのである。
また、「無責任」というタイトルについて、当時の製作陣は「あまりに不謹慎ではないか」という議論を重ねたと言われている 。しかし、結果としてこの言葉は、既存の重苦しい「連帯責任」や「滅私奉公」のシステムに対する、強力な解放の呪文として機能することになった 。まさに「無責任」こそが、当時の最先端の「誠実さ」であったというパラドックスが成立したのである。
脚本の変遷:香典泥棒から「無責任男」へ
本作の制作過程において、非常に重要な「キャラクター修正」が行われたことが判明している 。当初の脚本では、平均は「葬儀場に潜り込んで香典を盗むコソ泥」という、より犯罪的なキャラクターとして設定されていた 。
しかし、これに異を唱えたのが他ならぬ植木等本人であった。彼は古澤憲吾監督に対し、「泥棒のような反社会的な人間は演じたくない。あくまで『無責任』であっても『悪党』ではない男にしたい」と強く訴え、設定を変更させたという 。この修正により、平均は「法に触れないギリギリのラインで既存の価値観を笑い飛ばすトリックスター」へと昇華されたのである。
劇中に、私服の刑事が平均を執拗に尾行するシーンが残されているのは、この初期設定の名残である 。警察官の目から見れば「怪しい男」だが、観客の目から見れば「ただの自由な男」という二重構造が、キャラクターに奥行きを与えている。
古澤憲吾と映像革命:ダイナミズムとズームの魔術
『ニッポン無責任時代』の成功は、監督である古澤憲吾の「狂気」に近い演出スタイル抜きには語れない 。彼は「ダイナミズムの古澤」と呼ばれ、静止画のような美しい構図を重んじる当時の映画界の伝統を、暴力的なまでのズームとスピーディな展開で破壊した 。
「古澤イズム」の技術的構成要素
-
狂熱のズーム・ショット: 古澤監督は、ズームレンズを単なる寄りの道具ではなく、感情の爆発を表現するアクションとして使用した 。平均が驚くシーン、あるいは決意するシーンで、カメラは物理的な重力を無視するように被写体へ「突進」する 。これは、後のアニメ演出にも多大な影響を与えたと言われている。
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ミュージカル・シーンの突然変異: 唐突に歌い出し、オフィスや街中で群舞が始まる演出は、ハリウッド・ミュージカルへのオマージュでありながら、極めて日本的な「お祭り騒ぎ」の変奏であった 。特に、平均が社内を練り歩きながら「無責任一代男」を歌うシーンは、労働空間を一瞬にして祝祭空間へと変貌させる力を持っていた 。
-
色彩の暴力: カラー映画としての特性を極限まで活かし、ビビッドな原色を多用した美術設定は、高度経済成長期の「ギラギラした欲望」と「明るい未来」を視覚的に象徴していた 。
古澤演出は、当時の批評家からは「品がない」「騒がしいだけだ」と揶揄されることもあったが、大衆は、この「理屈抜きに血が騒ぐ」映像体験に熱狂した 。まさに、映像の「植木等化」が、古澤憲吾というフィルターを通じて実現されていたのである。
ロケーションの象徴性:大和呉服橋ビル
平均が潜り込む「太平洋酒」の社屋として撮影に使用されたのは、東京駅八重洲口近くに存在した「大和証券ビル(大和呉服橋ビル)」である 。1956年に竣工されたこの近代的ビルは、当時のニッポンのビジネス界の最前線を象徴する場所であった 。
古澤監督は、この「本物の近代建築」の中で「偽物のサラリーマン」である平均を暴れさせることで、現代社会の滑稽さを浮き彫りにした 。ちなみに、このビルは古澤監督のお気に入りで、その後の「日本一の男」シリーズでもたびたび登場し、ファンからは「クレージー映画の聖地」として親しまれている 。まさに、ロケ地も「等(等しく)」扱われていたわけである。
浄土真宗と「凡夫」の肯定:植木等の内なる葛藤
『ニッポン無責任時代』を語る上で、最も深く、かつ感動的なエピソードは、植木等の実像とキャラクターの間のギャップ、そして彼を支えた父・植木徹誠の教えである 。
真面目すぎるコメディアンの悲哀
植木等本人は、劇中の平均とは正反対の、極めて繊細で生真面目な人物であった 。彼は、自身をスターに押し上げた「スーダラ節」の歌詞、「分かっちゃいるけどやめられねぇ」を初めて見た際、激しいショックを受けたと回想している 。
「こんなふざけた歌を歌って、日本中の子供たちが真似をしたら、日本はダメになってしまう。自分の人生もこれでおしまいだ」 。
ディック・ミネに憧れ、二枚目のジャズシンガーを目指していた彼にとって、無責任男という偶像は、自身の美学を真っ向から否定するものであった 。ヒットすればするほど、彼は「こんな歌が流行する社会は悲しい」と思い悩み、精神的に追い詰められていった 。
父・徹誠の言葉:親鸞聖人の教えとの共鳴
この窮地を救ったのが、三重県の浄土真宗真宗大谷派の僧侶であった父・徹誠であった 。徹誠は、悩む息子に対し、意外な言葉をかけた。
「等よ、この歌詞は素晴らしい。これは親鸞聖人の教えそのものだ」 。
徹誠はこう説いた。「人間というものは、あれをしちゃいけない、これをしちゃいけないと分かっていながら、ついやってしまう。それが人間の本当の姿であり、それを浄土真宗では『凡夫(ぼんぶ)』と呼ぶのだ。『分かっちゃいるけどやめられない』というのは、自分の弱さを認めた人間の、最も誠実な告白ではないか。これを歌うことは、決して不謹慎なことではない。むしろ、救いなのだ」 。
この父の「説法」により、植木等は自身の役柄に「宗教的な使命感」を見出した 。平均という男は、単なるお調子者ではなく、人間のどうしようもない業(ごう)を一身に背負い、それを笑いに変えて人々を解放する「菩薩」のような存在として、植木の中で再定義されたのである。
反戦僧侶・植木徹誠の影
父・徹誠は、単なる宗教家ではなく、戦前・戦中を通じて徹底して戦争に反対し、治安維持法違反で投獄された経歴を持つ、凄まじい信念の人であった 。
| エピソード | 内容 | 植木等への影響 |
| 反戦の信念 |
檀家の出征兵士に「なるべく弾の来ない場所を選べ」「相手を殺すな」と諭した |
国家の命令(責任)よりも個人の命を優先する思想 |
| 平等思想 |
「平等」という言葉から、本名として「等」と名付けた |
権威に屈しない独立心と、万生への慈しみ |
| 偶像破壊 |
金ピカの仏像を物差しで叩き、「中身は木だ」と少年の等に教えた |
形骸化した形式や肩書きに惑わされない本質的な視点 |
植木等が演じた「無責任男」が、どこか世俗を超越した爽快感を纏っていたのは、その背後にこうした峻烈な「個の自由」の思想が流れていたからに他ならない 。植木等の活躍は、ある意味で父・徹誠が果たせなかった「戦後の自由の謳歌」を、芸能という形で行っていたとも解釈できる。
キャスティングの妙:クレージーキャッツとお姐ちゃんトリオ
本作を支えるのは、植木等の突出したキャラクターだけではない。ハナ肇とクレージーキャッツの面々、そして東宝が誇る女優陣による重層的なキャスティングが、コメディとしての完成度を極限まで高めている 。
クレージーキャッツ:プロのジャズマンが織り成す笑い
1950年代、米軍キャンプを回り、超一流のジャズ演奏の合間に過激なコントを挟むスタイルで人気を博した彼らは、映画の中でもその「音楽的間合い」を遺憾なく発揮した 。
-
ハナ肇(氏家勇作 社長役): クレージーのリーダーであり、平均の暴走を受け止める「器」の大きな社長を好演 。平均の無責任さに翻弄されながらも、どこか彼に魅了されてしまう権威の象徴として、コメディのアンカーを務めた 。
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谷啓(谷田総務部長役): 「ガチョーン」で知られる稀代のコメディアンだが、本作では平均に居場所を奪われかける、気の弱い中間管理職を繊細に演じた 。彼のトロンボーンのような伸びやかなリアクションは、植木のスピード感に対する絶妙なカウンター・メロディとなった 。
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犬塚弘、安田伸、石橋エータロー、桜井センリ: 太平洋酒の社員として脇を固め、アンサンブルとしての笑いを増幅させた 。彼らが一堂に会するシーンは、まるで緻密に計算されたジャズのセッションのような心地よさがある。
お姐ちゃんトリオ:モダン・ガールたちの共演
当時の東宝で絶大な人気を誇った「お姐ちゃんトリオ」こと団令子、重山規子、中島そのみの出演は、映画に華やかさと、1960年代的な「自立した女性の強さ」をもたらした 。
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団令子(芸者・まん丸役): 平均と対等に渡り合い、株の売買や会社の乗っ取り劇にも深く関わるバイタリティ溢れる女性を演じた 。
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重山規子(社長秘書・佐野愛子役): 平均の正体を見抜きつつも、彼の生命力に惹かれていくクールな秘書役 。平均に「前の会社をクビになったから入社した」と正直に告白されるシーンは、二人の間の不思議な信頼関係を示している 。
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中島そのみ(マダム・麻田京子役): バー「マドリッド」の女主人として、夜の社交界に生きる大人の女性を演じた 。
彼女たちは単なる「添え物」ではなく、平均という無責任男を手玉に取ることもある、非常にアクティブな存在として描かれている。これは、高度成長期における女性の社会進出や、消費の主役としての台頭を予見させる描写でもあった 。
音楽的考察:神津善行と萩原哲晶のサウンドトラック
『ニッポン無責任時代』において、音楽は映画の「伴奏」ではなく、映画そのものの「骨格」である 。
「無責任一代男」のインパクト
主題歌「無責任一代男」は、神津善行の音楽監修のもと、作詞・青島幸男、作曲・萩原哲晶という黄金トリオによって生み出された 。
この楽曲の最大の特徴は、イントロから全開のブラスセクションと、植木等の突き抜けるようなハイトーンの笑い声である。「俺はこの世で一番の、無責任と言われた男……」という歌詞は、一種の自己紹介でありながら、社会の全ての束縛を嘲笑する「自由宣言」でもあった 。
また、劇中で挿入される「ハイ、それまでョ」も、物語の展開と完璧にシンクロしている 。失敗しても、あるいは計画が破綻しても、「ハイ、それまでョ」と一言唱えるだけで、全ての過去はリセットされ、次の瞬間には新しい遊びが始まる。この「リセット感覚」こそが、当時の停滞していた日本人の精神を蘇生させたのである。
業界話と雑学:映画制作の舞台裏
本作には、映画ファンや業界人を唸らせる興味深いエピソードが数多く残されている。
渡辺プロダクションの戦略
当時、渡辺プロダクションの社長であった渡辺晋は、クレージーキャッツを単なる「芸人」ではなく「マルチエンターテインメント・スター」として売り出す戦略を立てていた 。本作の製作に安達英三朗とともに渡辺晋が名を連ねていることは、芸能事務所が主導して映画をヒットさせるという、現在のメディアミックスの先駆けであったことを物語っている 。
助監督たちの証言:カオスな現場
BDのオーディオコメンタリーには、助監督の吉松安弘や記録の横山照子が出演し、当時の現場の熱気を語っている 。古澤監督の撮影は非常に速く、かつ即興性に満ちていたため、スタッフは常に全力疾走を強いられたという 。特にズームのタイミングなどは、カメラマンの直感に任される部分も多く、そのライブ感が映像に刻み込まれている。
ノンクレジットのエキストラと「その後」
本作には、後にスターとなる俳優たちがエキストラとして出演していたことも知られている。例えば、若き日の児玉清が社員役でノンクレジット出演している 。また、同時上映の『喜劇 駅前温泉』の主演であった森繁久彌は、後のシリーズ作品で植木等と共演し、新旧のコメディアンのバトンタッチを象徴するようなシーンを見せることになる 。
社会的影響と評価の変遷
『ニッポン無責任時代』が公開された直後、インテリ層や一部の教育者からは「若者に悪影響を与える」「不真面目を助長する」といった批判が相次いだ 。しかし、大衆の支持は圧倒的であり、映画は予想を遥かに超える大ヒットを記録した 。
サラリーマンの救済
当時の観客の中には、「平均のように生きたいけれど、現実は厳しい。でも、映画館の中でだけは彼になりきって、明日への活力を得ることができた」と語る者が多かった 。これは、映画が提供する「健全な逃避」であり、一種のメンタルケアとしても機能していたと言える 。
現代の視点から見れば、平均の行動は「ワークライフバランス」を極限まで先取りしたものとも解釈できる。会社に人生を捧げるのではなく、会社というシステムをいかに「利用」して自分の人生を豊かにするかという視点は、21世紀の現在においてますます重要性を増している 。
クレージー映画の系譜
本作の成功を受け、東宝は『ニッポン無責任野郎』(1962年)、『日本一の色男』(1963年)、『日本一のホラ吹き男』(1964年)と、矢継ぎ早にシリーズを製作していく 。
| 作品名 | 公開年 | 監督 | 植木等の役名 | 特徴 |
| ニッポン無責任時代 | 1962 | 古澤憲吾 | 平均(たいら・ひとし) |
シリーズ第1作。無責任男の原点 |
| ニッポン無責任野郎 | 1962 | 古澤憲吾 | 源等(みなもと・ひとし) |
さらに傍若無人なパワーアップ |
| 日本一の色男 | 1963 | 古澤憲吾 | 光等(みつ・ひとし) |
サラリーマン映画のパロディ的側面 |
| ホラ吹き太閤記 | 1964 | 古澤憲吾 | 木下藤吉郎 |
時代劇への進出。戦後最大のヒットの一つ |
これらの作品を通じて、植木等は「日本の高度経済成長を最も象徴する顔」となり、その笑い声は、ニッポンの活気のサウンドトラックとなった。
結論:永遠の「平均(たいら・ひとし)」
『ニッポン無責任時代』は、単なる古い喜劇映画ではない。それは、日本人が「高度経済成長」という未曾有の狂騒を生き抜くために必要とした、精神の解毒剤であった。
植木等が演じた平均という男は、一見すると自己中心的で軽薄に見えるが、その根底には、父・徹誠から受け継いだ「人間は誰しも愚かで、弱い。だからこそ、等しく許され、笑い飛ばされる権利がある」という、浄土真宗的な救済の哲学が流れていた。
平均の笑い声は、過酷な競争社会に生きる人々に対し、「どんなに失敗しても、ハイ、それまでョと言ってやり直せばいい。俺について来れば、なんとかなる」という、根源的な肯定を突きつけていたのである。
現代社会において、我々は再び、過剰な「責任」や「コンプライアンス」の重圧に晒されている。そんな今こそ、平均(たいら・ひとし)の「責任持たないカンケイない!」という軽やかな叫びが必要なのかもしれない。
植木等の名が示す通り、人生は「等しく」素晴らしいものであり、真面目に生きることも、たまには無責任に笑い飛ばすことも、どちらも大切な人間の一側面なのだから。まさに、「植木」だけに、その教えは今も我々の心にしっかりと根を張っているのである。
最後に、業界で語り継がれる植木等の言葉で本レポートを締めくくりたい。 「本当に面白いコメディアンというのは、舞台を降りた時に一番真面目な人間なんだよ」
その真面目さが生んだ「無責任」という最高の虚構は、これからも日本の映画史に燦然と輝き続けるだろう。
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