18歳のメッシが全盛期のロナウジーニョに衝撃を与えた試合
言及されている人物
ロナウジーニョ
リオネル・メッシ
18歳のメッシが世界に衝撃を与え、名将ファビオ・カペッロを震撼させた2005年8月24日のジョアン・ガンペール杯(対ユヴェントス)について、当時の移籍市場の裏話や業界の逸話を交えて掘り下げます。
「世界がメッシを見つけた夜」と名将カペッロの即答
この試合は、カンプ・ノウで行われたバルセロナのプレシーズンマッチ(親善大会)でしたが、内容は公式戦以上の緊張感に満ちていました。当時のユヴェントスは、パトリック・ヴィエラやファビオ・カンナヴァーロ、パオロ・モンテーロといった世界屈指の猛者が揃う「ガチガチの守備陣」でした。
そこに突如現れた18歳のメッシは、その百戦錬磨の守備陣をキリキリ舞いにさせます。
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カペッロの有名な裏話 試合直後、ユヴェントスの名将ファビオ・カペッロは、バルセロナの監督フランク・ライカールトの元へ走り寄り、こう直談判しました。
「なあフランク、あの小僧を1年間うち(ユヴェントス)にレンタルで貸してくれないか? バルサは外国人枠がいっぱいで彼を登録できないんだろ?」
カペッロはその場で即座に獲得交渉を試みたものの、ライカールトは当然ながら首を縦に振りませんでした。カペッロは後に「人生であれほど一瞬でプレイヤーの才能に圧倒されたことはない。彼はプレシーズンでロナウジーニョすら霞ませていた」と回想しています。
当時抱えていた「EU外選手枠(外国人枠)」のルール問題
なぜカペッロが「借りられる」と考えたのかというと、当時のスペイン・リーガ・エスパニョーラには「EU外選手枠(外国人枠)」は最大3名までという厳格なルールが存在したからです。
当時バルセロナのEU外枠は以下の3名で埋まっていました。
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ロナウジーニョ(ブラジル)
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サミュエル・エトー(カメルーン)
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マルケス(メキシコ)
そのため、18歳のメッシはトップチームの公式戦に出場できない可能性(法的なライセンス問題)が浮上しており、他クラブはこぞって「隙があればレンタルで奪おう」と狙っていたのです。バルセロナ側は急遽、スペイン国籍取得の手続きを最優先で進め、同年10月に無事スペイン国籍を取得させることでこの危機を乗り越えました。
ロナウジーニョとの「師弟関係」と背番号10の継承
概要欄には「ロナウジーニョを凌駕していたか?」という問いがありますが、当時のロナウジーニョとメッシの関係はライバルではなく、完全なる「師弟(兄と弟)」でした。
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ロッカールームの王者が認めた才能 当時、世界最高の選手としてバロンドールを獲得し、バルセロナの「絶対的国王」だったロナウジーニョは、まだトップチームに入ったばかりで人見知りだったメッシを自分の隣の席に座らせ、常に気にかけていました。
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初ゴールの「おんぶ」 このジョアン・ガンペール杯の数ヶ月前(2005年5月)、メッシがトップチーム初ゴールを決めた際、絶妙なループパスでアシストしたのがロナウジーニョであり、ゴール直後にメッシがロナウジーニョの背中に飛び乗って喜んだシーンはサッカー史に残る名場面です。
ロナウジーニョは当時からメディアに対し、「俺はバルサで一番の選手かもしれないが、世界一の選手(メッシ)は俺の隣に座っているよ」と語っており、自分が退団した後の「10番」をメッシに託すことを誰よりも望んでいました。
業界視点:プレシーズンマッチの価値を跳ね上げた伝説
本来、ジョアン・ガンペール杯のような招待試合(プレシーズンマッチ)は、新戦力の試運転やコンディション調整の場であり、スカウトやメディアが本気で評価を下す対象ではありません。
しかし、この2005年の試合は「たった1試合のプレシーズンマッチが、ひとりの若者の価値とキャリアを一夜にして決定づけた」というサッカービジネス的にも極めて珍しい事例となりました。この夜を境に、メッシは「期待の若手」から「世界中が注目するスーパースター候補」へと一気に跳ね上がったのです。
**2005年8月24日のジョアン・ガンペール杯(バルセロナ vs ユヴェントス)**は、単なるプレシーズンマッチを超えて「メッシが世界に認知された夜」としてサッカー史に刻まれています。18歳のメッシがカンプ・ノウで初めて先発し、当時のユヴェントス(ヴィエラ、カンナヴァーロ、モンテーロらが守る堅守)を翻弄した一戦について、移籍市場の裏事情や業界逸話を交えてさらに掘り下げます。
カペッロの「25分で即断」と直接交渉の詳細
試合開始から約25分で、ファビオ・カペッロはサイドラインにいたフランク・ライカールトの元へ駆け寄りました。カペッロ自身の回想によると、「フランク、あの小僧を1年レンタルでユヴェントスに貸してくれないか? 君たちは外国人枠がいっぱいで公式戦に出せないんだろう?」と直談判したそうです。
カペッロは後に「人生であれほど一瞬で選手の才能に圧倒されたことはない」と繰り返し語っています。特に印象に残ったのは、90,000人の大観衆の前で一切怯まず、経験豊富なサイドバック(バルザレッティ)を相手に堂々と仕掛け、ボールを持つとゴールへ向かって突き進む「図々しさ」だったといいます。試合後の会見でも「この年齢でこれほどのクオリティと個性を持つ選手を見たことがない。彼はボールで好きなことができる」と絶賛。イタリアのテレビ実況も「高度な技術のショー」「絶対的な才能」と興奮気味に伝えていました。
興味深いのは、カペッロがただ褒めただけでなく、試合中に即行動した点です。当時のユヴェントスはセリエA王者で、移籍市場でも強力なポジションにありました。もしライカールトが少しでも迷いを見せていれば、歴史が変わっていた可能性すらあります。しかしライカールトは「3〜4ヶ月で問題は解決する。彼はバルサでプレーする」と即答で断りました。
外国人枠問題の「瀬戸際」と国籍取得の緊急対応
当時のリーガ・エスパニョーラはEU外選手枠が最大3名までと厳格でした。バルセロナの枠はすでにロナウジーニョ(ブラジル)、サミュエル・エトー(カメルーン)、ラファエル・マルケス(メキシコ)で埋まっており、メッシはリーグ戦に出場できない「法的宙ぶらりん」状態でした。チャンピオンズリーグでは「同化選手」扱いである程度柔軟でしたが、国内リーグでは致命的でした。
この隙を突いて、ユヴェントス以外にもカディスやエスパニョールなどがレンタルを狙っていたという話もあります。特にカディスは当時枠に空きがあり、真剣に接触を試みた時期があったとされます。バルセロナは急遽スペイン国籍取得手続きを最優先で進め、2005年9月26日にメッシがスペイン国籍を取得。これにより「共同体選手」として正式にリーグ戦出場が可能になり、危機を脱しました。もしこの手続きが遅れていれば、レンタル流出が現実味を帯びていたかもしれません。
ロナウジーニョとの師弟関係と「10番継承」の伏線
この試合の数ヶ月前(2005年5月1日、対アルバセテ戦)にメッシがトップチーム初ゴールを決めた際、アシストしたのがロナウジーニョで、ゴール直後にメッシがロナウジーニョの背中に飛び乗って喜ぶシーンは象徴的です。ロナウジーニョはすでにバロンドール受賞者でロッカールームの絶対的な存在でしたが、人見知りの若手メッシを隣の席に座らせ、常に気にかけていました。
ロナウジーニョはメディアに対し「俺はバルサで一番かもしれないが、世界一の選手は俺の隣に座っている」と公言しており、自分が退団した後の背番号10をメッシに託すことを強く望んでいました。この「兄と弟」のような関係が、メッシを精神的に支え、早期の適応を助けたと言われます。
業界視点:プレシーズンがキャリアを決めた稀有な例
通常、ジョアン・ガンペール杯のような招待試合はコンディション調整の場で、本気の評価対象になりにくいものです。しかしこの一戦は、カペッロという権威ある名将の公の絶賛と、観客の大合唱(試合終盤に「メッシ!メッシ!」のコールが沸き起こり、交代時にスタンディングオベーション)が重なり、メディアが一気に「次世代のスター」として扱い始めました。翌日の紙面では「メッシを出場させないのは犯罪だ」とまで書かれ、クラブ内部の「レンタルもやむなし」という空気を一掃する効果を発揮しました。
サッカービジネス的に見ると、「たった1試合の親善試合が、選手の市場価値とクラブの方針を一夜で決定づけた」極めて珍しいケースです。この夜を境にメッシは「有望なアカデミー出身者」から「絶対に手放せない至宝」へと位置づけを変え、その後の契約延長や出場機会の拡大につながりました。
この2005年8月24日の出来事は、才能が「発見」される瞬間の偶然と必然が交錯した好例です。カペッロの即座の反応、枠のルールという外的要因、ロナウジーニョの庇護、そして何より18歳の少年が大舞台で示した胆力——これらが重なって、後のサッカー史を形作る起点となったのです。
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